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第222号  振り返って思い願うこと  令和元年7月1日発行
2019-09-10
 
 大阪から帰郷し家を新築して五十年。半世紀が過ぎた。その間に何度も増改築を重ねてささやかな憧れを実現してきた。
 当時は田んぼの真ん中の一軒家で、車も入れなかった土地であったが、近所の人の畑の持ち主のご厚意でやっと普通車が通れる道を確保して頂いた。屋敷内に車を乗り入れた時の感動は忘れられない。夢実現の始まりであった。
 家は母親の俳句仲間の棟梁にお願いして、無理な要求にも対処して頂き、格安に丁寧に建築をしてもらって感謝、感謝である。
 余裕の金もないのに、家の周りに石垣を築いて玉柘植を植える。そして泉水を造って錦鯉を泳がせた。振り返れば分不相応なことをしたとの反省は残るが、幼い頃の憧れがそうさせたのだろう。
 後年、泉水は家相上良くないと教えられて水を抜き現在は枯山水にして形はそのまま留めている。
 家の玄関前、石垣の脇に、親指程の太さで一メートル足らずのソメイヨシノの苗を、当時はそれほど意識をしていたわけではないが芝生の上で花見が出来れば楽しいだろうと植えたのだが、半世紀経ってこの桜は我が家のシンボル的存在になっている。この遍路宿の第一四六号で紹介した社員の初花見からやがて二十年、二十名足らずで始めた花見も年々参加者が増えて今年は四十数名にもなって賑やかな宴になった。
 ソメイヨシノの寿命が六十年と言われているので、その最期を見届けるのは私か、それとも桜が私を看取ってくれるのか。どうも桜に看取られて逝くような気がしている。
 今までこうして夢、憧れを少しずつ自分の手で実現してきたようにも思われるが、どんなに願い、努力しても実現出来ない事柄もある。
 畑の持ち主のご厚意で進入路は出来たが、それは屋敷の戌亥の方角に繋がっている。
 家相上では玄関は辰巳の方角が吉とされている。当時の我が家の南東方向は広々とした田んぼが広がっていて農家の大切な稲田である。これは願っても努力しても東から侵入する道が出来る可能性は全くなかった。
 ところが、その稲田を横切って国道三十二号線から高松空港へ行くバイパス道が造られた。田んぼを挟んで百メートルほど先に道路が通る。しかし、田んぼは依然としてある。
 端の方で車が通れるだけでも分けてもらえないか、願ったが、当時は農家の稲田に対する執着は強かった。やはり不可能か。
 ところがその田んぼの旧家と言われていた地主さんの息子さんに何があったのか。土地家屋のすべてを手離された。
 そこでなんと稲田が分譲地として売り出されることになる。我が家まで道が出来るのだ
 隣接の一区画を購入して、東からの侵入が可能になる。念ずれば通じる。不可能と思っていたことが、可能になった。
 早速家の東側、辰巳の方角に玄関を増築して、西の元の玄関は封鎖して、家相上の不安を無くする。
 買った一区画の土地に息子一家が、家を建てて我が家とはウッドデッキで繋がっている
 中学生になった孫二人が毎朝ウッドデッキから渡って来て我が家の勝手口から「行ってきます」と学校に行く。至福の瞬間である。
やはり夢実現には先ず思い、願うことだ。
 
  第221号   甥       平成31年4月1日発行
2019-04-12
 昨年、紅葉が始まる頃、姉の長男が六十才の人生を閉じた。平均年齢には遠く及ばないが、良くぞここまで生きられた、と思う。
 三十才で腎臓を患いそれから透析生活が始まった。人生の半分を病院通いで生きてきた
 二十歳代に何があったのか、知る由もないが、不摂生が原因であることは本人も認めていたようだ。
 直島で精錬所に勤める父の家庭で小、中学校では、弟と共に運動会の花形であった。体格にも恵まれて、野球部で活躍、高松の高校に入って甲子園への夢もあった。
 一年生の時には我が家から通っていたが、練習で夜遅くなるので、学校近くの寮に入って練習に励んだ。
 残念ながら甲子園には一歩及ばなかったが充実した高校生活を送っている姿は頼もしく見えた。
 東京の大学に入ってからは、野球は断念したのか、野球の話は聞かなくなった。因みに今年巨人の監督に復帰した原辰徳氏は同じ歳である。
 野球の練習から解放されて、大学生活の四年間は青春時代を謳歌していたようだ。
 就職は、その甥が生まれたころに誕生したスーパーマーケットが、当時益々隆盛の兆しがあって、金儲けはこの流通業界だと判断したのだろう。サラリーマンの家庭で育って金持ちになりたいと思うのは誰しも同じだが、残念なことに商才のDNAは、父方にも母方にも全くない。それが人生の分かれ道であったか。
 肌に合わない仕事の毎日、つい父親譲りの酒に溺れた。
 奇しくも六十才で定年退職した父が、当時、横浜に居た息子の様子を見に夫婦で訪れたが、そこでなんと父親が心筋梗塞で急逝する。
退職後、倉敷に家を新築して直島から移り住んで僅か三ケ月で帰らぬ人になった。その   父親の初盆に帰省していた甥は、そこで急性腎不全を発症してそのまま入院、透析生活が始まる。何度か危機的状態に陥ったこともあったようだが、なんとか父親と同じ六十年の生涯を終えた。
 体調の良さそうな時を選んで一泊の旅行に何度か誘って一緒に行った。
富士五湖を巡った日は秋の晴天に恵まれて富士山と湖を背景に颯爽とした姿が残っている。又後日、箱根では大学駅伝の往路ゴール地点にある母校の校旗の横で、ほほ笑んでいる姿は病人には見えない。寡黙な甥は喜怒哀楽もあまり表には出さなかったが、この小旅行は楽しみにしていたようだ。
 半世紀前、直島の社宅で小学生の兄弟が仲良く、殊に二つ違いの弟が兄ちゃん、兄ちゃんと慕う姿が、脳裏に焼き付いているが、猛暑であった昨夏、医師からこの夏が越せるかどうか、宣告された兄を、自衛隊を定年退職した弟が、浜松の家族を残して倉敷の実家で兄の面倒を看ていた。本来なら兄弟家族が揃って明るい団欒での場であったはずだが。
 倉敷での葬儀には高校のチームメイトが遠くから大勢参列してくれて、四十年以上も経って、その友情に、姉は感激と感謝の涙を流していた。
 そして「亡くなってこれでよかったのだ、楽になれただろう、と自分に言い聞かせてはいるが、やはり生きていてほしかった」と。逆縁の運命は悲しい。
 
第220号   スポーツ    平成31年1月1日発行
2019-03-04
           
 昨年(平成三十年)は日本のスポーツ界で不祥事が続いた。スポーツと言う爽やかな響きの言葉が汚された思いで誠に残念だが、試合となるとやはり勝ち負けが最優先するようになるのか。
 「ルールを遵守して競技を楽しみ、公正なプレーを尊重して、相手の選手に対する尊敬や賞賛、同じスポーツの仲間としての意識をもって行われる活動である」とスポーツマンシップの精神として書かれている。
 日大のアメフトに始まって、日本レスリング協会、日本ボクシング連盟、日本体操協会女子のパラハラと次々に世間を騒がせた。
 これらは偶々起こった出来事ではなくて、長年潜んでいた事柄が、何かの切っ掛けで一気に表に出て来ただけのことのようだ。 
 長年いろんなスポーツを楽しんで来たが、スポーツマンシップと言う言葉を特に意識したことはなかった。当たり前に練習をして試合に勝ったり負けたりで努力の成果を楽しんで来た。
 中学生時代に「お前はバレーボールで飯が食える」と担当の先生から言われていたが、自分でもそれなりの技術はあると自負していた。反面、勝負の世界で生きられる性格ではないとも自覚していた。それは、昨年起きたスポーツ界の不祥事の雰囲気を中学生で、すでに感じていたのだろう。
 当時バレーボールで全国的に名の知れた強豪高校が坂出にあった。そこで打ち込んでいたら私のバレーボール人生が開けていたかも知れない。がしかし噂の話ではあるが、隣村の中学校の強敵校のエースアタッカーが、その高校に入って、婦女暴行事件を起こして退学処分になった。そのチームで仲間になっていたなら、同じ罪を犯さないと言う保証はない。勝負師が悪い奴だとは言わないが、その奥に強すぎる我が潜んでいるのも又確かだろう。
 甲子園の高校野球にケチをつける気持ちは全くないが、名門と言われた学校が、不良行為で野球部廃部になったところもある。多かれ少なかれ高校野球チームにはそんな要素が潜んでいるのではないか。
 なかには愛媛県西条市の悪餓鬼のボスが、後にプロ野球界一の紳士と言われ、名投手、名監督にもなられた方もおられる。             
 問題になった各界の会長、監督、コーチも強い性格であるのだろうが、そのまま大人になってしまって、紳士になり得なかったのか。
 最近高校野球で選手の自主性を重んじてチーム造りを始めた高校が好成績を残すようになってきた。箱根駅伝で有名になった大学も同じように監督が紳士然である。
 強権を持って厳しく叱咤することが、強靭な選手を育てる手法であるとほとんどの指導者が信じているのだろう。さらに厳しく言えばスポーツの陰に隠れて多少の不良行為が許されてきた風潮があるのかも知れない。
 健全な精神は健全な身体に宿るのか。健全な身体は健全な精神が育むのか。後者だと思うが、折角の運動神経も精神が弱くては育たない。不祥事を機会に叱咤罵声から、褒めて励ます指導方法に改革されれば、選手層もさらに厚くなるのではないか。優れた運動神経がありながら、それを伸ばしきれなかった若者が大勢いると思う。その若者たちが、安心して打ち込める明るい環境が整えば日本のスポーツ界はもっと強くなっていくだろう。
       
 
  物事を受け止める心
2019-03-04
物事を受け止める心 
        
                                坂 東 重 明
「坂東さん、道端に野花が可憐に咲いていますね。そこに通りかかった人は、立ち止まって眺めていく人、その花を摘んで持ち帰る人、あるいは足で蹴飛ばしていく人もあるかも知れない、まったく気付かず通り過ぎる人もいるでしょう。そこに咲いている花になんの変りもないのだけれど、その花を見て感じる心は人それぞれに違いますね。その感じる心に相応しい人生が待っているのですよ」
 二十歳代も後半になっていたと思う。営業で訪問していたお得意先の社長様が、何気なく言われた言葉だが、私の胸に強烈に響いた。
 担当のお得意様には誠心誠意で接してきたつもりであったが、お得意先の中にはその思いがまったく通じないお客さんもあった。「坂東は生き馬の目を抜く大阪の商売人」さらに香川県出身と分かると「さぬき(讃岐)の狸」と揶揄される。元来、田舎育ちで駆け引きは出来ない。利鞘を稼ぐ商売人と言う言葉も大嫌い。それなのに、なぜ「がめつい商売人」と受け取られるのか。
 やはり営業には向いていないのだろう。そんな悶々とした日々を送っていたときであった。
 そうか、同じ坂東を見ても人それぞれに感じ方は違うのだ。坂東は真面目な奴、と感じてくれる人はその人が真面目なのだ。生き馬の目を抜く商売人に見える人はその人が商売人なのだ。
 それに気付くと急に肩の力が抜けたのが分かった。それからは、さぬきの狸と言われようと、なんの抵抗感もなくなった。するとどんな人とも等しく接せられるのが不思議である。営業の楽しさを知った。
 そして受け止める心の大事さ、日常の諸事を受け止める心の積み重ねがその人の人生であること。不幸な人生を歩んでいる人は間違いなく物事を不幸に受け止めている。可憐な野花を蹴飛ばしていく人に幸せは来ないだろう。
 どこかで人間革命という言葉をよく耳にするが、この「物事を受け止める心のあり方」に気付いたことは、私自身の三十路に向けての人間革命であった。
 
       2010年11月25日  株式会社PHP研修所 発行
    トップリーダーが綴る 元気をもらった一言 より
 
第219号  木下忠司氏を偲ぶ 平成30年10月1日発行
2019-03-04
 木下忠司氏が今年四月三十日に亡くなられた。享年百二才。
 弊社の社員を初め何人かに、その名を知っているか聞いてみるが、誰も知らない。                                            因みに「木下恵介」は、と聞くと、年配の社員一人だけ「映画監督ですか」と答えてくれた。
 時代の流れなのか、それとも私の周辺には映画、文学には無関心の人ばかりなのか。かく言う私もその類であることは間違    いないが。
 木下恵介氏は「二十四の瞳」が有名な映画監督。木下順二氏は「夕鶴」の純文学者。木下忠司氏は作曲家。これが秀才の木下三兄弟と教えられていたが、もう一人脚本家の楠田芳子氏も兄妹であった。
 木下忠司氏は我が母校、坂出工業高校の校歌の作者である。なぜ高名な作曲家が田舎の高校の校歌を作られたのか、疑問に思っていたが、その経緯を、宇多津のホテルで開催された創立七十周年記念同窓会(二〇〇七年十月二十七日)に来賓として来られていたご本人から直接伺った。
 「ある日、突然谷口君がやって来て、隊長我が校の校歌を作って下さい」
 谷口君とは、電気課の教師で我が恩師でもある。戦争中、木下隊長の部下であった。                                  学校創立(一九三八年)以来校歌の無かった我が高校に、戦後教師になられた谷口氏が、校歌制作に一役買って出られた。
 要望を受けて木下忠司氏は坂出に数日間滞在されて構想を練った。
  ♪讃岐なる富士を背にして
   内海の瀬戸にのぞみぬ
   真白なる塩のめぐみと
   真実(まこと)なる人の心に育まれ
   若人は技をみがきぬ
   こころみがきぬ
 二番、三番にも坂出工業高校と言う言葉は出てこないが、詞も曲も抒情的で素晴らしい校歌だと思っている。 
 究極のマンネリ番組と言われながら、今尚人気の「水戸黄門」は、平日毎日のように再放送されているが、タイトルの直      後に「音楽木下忠司」と出てくるのも嬉しい。記念同窓会でお会いした時はすでに引退されて八ヶ岳で静かに暮らしておられたが、
「水戸黄門の音楽は、スタッフが上手く使ってくれている」と仰っていた。その八ヶ岳に「一度伺います」と約束をしたのだが、叶わず歳月が流れた。
 八ヶ岳にはタレントの柳生博氏経営の「八ヶ岳クラブ」があって、当時、家内が友人と毎年のように訪れていて聞きなれた所でもあった。
 木下恵介監督の大ヒット作「喜びも悲しみも幾歳月」の音楽も、もちろん弟の忠司氏。
  ♪俺(おい)ら岬の灯台守は
   妻と二人で沖行く船の
   無事を祈って灯をかざす
   灯をかざす
 勇壮な伴奏にのって歌手若山彰氏の声量豊かな歌声が耳に残っている。
 高校まで我が家から自転車で一時間余り。夏の酷暑の中、凍える冬の道を通ったが、歌好きの同級生がペダルをこぎなが ら、声を張り上げて 
 「♪おいら岬の・・・」と歌っていたのがもう六十年も前の事とは。
 

第191号  灰になるために生まれてきたんじゃない

第191号  灰になるために生まれてきたんじゃない
 
灰になるために生まれてきたんじゃない

出来たばかりのコンクリート舗装の路上に白い大きな犬の死体が横たわっていた。

開通間もない国道十一号。現在は県道三十三号になっているが、私が高校に通っている三年間に工事が進められて、出来上がった真新しい路面に無残な姿があった。最近では路上に死んでいる犬猫を見るのは珍しくもなくなったが、半世紀も前の光景が強烈に脳裏に残っている。今も通勤時に通る道である。

悲惨な交通事故死は人間も同様で悲しむべきことであるが、その犬猫の命が不慮の死ではなく、まるで売れ残ったコンビニの弁当のように処分されていると聞くと人間のおぞましさに恐怖感を覚える。

それは連日報道される幼児虐待、いじめ、陰惨な殺人事件等殺伐とした世相に現れているようにも思える。

知人が「小さな命の写真展」として、保険所等で殺処分される前の犬猫の表情を写した写真展を常盤街商店街、ホームセンター、駅構内、市役所等々で開催している。

この命、灰になるために生まれてきたんじゃない。全国で一日に約一千頭の犬猫が二酸化炭素に依って殺処分されている。香川県は人口当たりの殺処分数は全国ワースト五位だそうだ。その費用は全国で二十四億円と聞くこれ全て税金で賄われている。

人の癒しの為に、命の尊さを共有する筈のペットが心ない一部の人と思いたいが、無責任に捨てられ殺される。

写真展の会場で売られていた児童書のノンフィクション作家、今西乃子著「犬たちを送る日」の冒頭の部分を要約して紹介したい。

一九七八年、野犬の撲滅対策として、ある県での犬の買い上げ制度を設けたときのことである。

犬を保険所に持ち込んだ県民には一頭五百円の報酬を出す。

そこに小学生三人が七匹の子犬を持ち込んだ。

「すみません、これ買うてくれるんですか?」

「これ?どうしたいん?」

「犬、一匹ここに持ってくれば、五百円くれるって聞いたけん。七匹で三千五百円やけんね。お金くれん?」

当時の三千五百円といえば、かなりの高額である。

「そのお金、何につかうんや?」

「プラモデルじゃけん!欲しいプラモデルがあるで、それ買いたいんや!はようお金ください」

「君らが連れてきた子犬、ここに来てどうなるか知っとるか?」

「・・・?」

「あのな、ここに連れてこられた犬は、みんなあと数日で殺されてしまうんや。この子犬もそうじゃけん。みんな殺されてしまうんやで。それでもええんか?」

「かまわんけん!はようお金ください!はよう行かんと、プラモデルやさん、閉まってしまうけん」

 親が教えたのだ。

「そんなに小遣いがほしかったら、野良犬の子犬を見つけて保険所へ持って行け」と。 

 命を金に換え、そのお金で自分たちの欲しいものを手に入れようとする少年達、それを容認する大人達がたまらなく悲しく思えた。

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