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第175号 予期せぬ出会い
2007-10-01
  銀行との取引が又一行増えた。弊社のようなささやかな会社に数社もの銀行と取引する必要はないと思うのだが、有難いことに銀行の方から是非にと言われ断り切れずにお付き合いをしてしまう。
 
  本来は主力銀行と後一行くらいで十分だが、銀行は天気の良い時には傘を貸してくれるが雨が降り始めると傘を取り上げる。本当に必要な時には中々貸してもらえないのが常だ。
  そんな経験も過去には多少してきたから用心の為に、用立ててくれるなら金利も安いことだし、付き合いをしておいて無駄にはならないと、いつの間にか窓口を広げ過ぎた嫌いはある。

  数年前にある銀行の営業マンが新規開拓で飛び込みでやってきた。具体的に金利等の条件を出してきたので、丁度こちらにも土地購入の予定もあったので話を進めた。ところが最終段階になって条件が変わってきた。金利が倍近くでないと駄目だと言う。営業マンが勝手に弊社に提示をして、本社に決済を求めたら通らなかったのだろう。土地の代金支払いは迫っているし、仕方なく契約をして、その代わりいつ返済しても違約金は必要ないと言う条件を付けさせておいて、一ケ月後には他行で段取りをしてその銀行とは縁を切った。

  ところがその銀行の子会社の社長さんと四国地区の、ある会合の懇親会で偶然に隣り合わせの席になった。県も業界も違うからまさかそんな人が隣にいるとは思いもよらず、世間話をしていたら、その銀行の名前が出てきた。人柄の良さそうな人物であったから、当時の怨みつらみを遠慮なく申し上げた。
「それは誠に申し訳ないことをした。早速頭取に話をして、支店長を伺わせますから、もう一度チャンスを下さい」
  そうは言っても、その時の成り行きで言われただけだろうと、こちらは気にも留めていなかったのだが、翌日の朝、支店長から電話が入った。
  近年の決算書、最近の試算表を見せて、
  「これを見られたらお断りになるでしょう」と皮肉を込めて言っておいたのだが、今回はさすがに慎重に審査をしたのか、少し日にちをおいてやって来た。
  私の思う基準よりも条件が悪ければ即追い返すつもりでいたのだが、なんと許容範囲の条件ではないか。お会いした社長さんの手前もあり、融資を受ける羽目になった。
  私の会社は香川県、社長さんと出会ったのは高知県、その銀行の本店は徳島県にある。真に奇遇と言わなければならない。

  一昔前とは銀行も変わってきた。護送船団方式で守られてきた時代とは違って、銀行間で競争をする自由社会の当たり前の姿になってきた。銀行マンの人柄が問われる時代になったのだ。         
  先の社長さんの人柄もそうだが、お取引をさせて頂いている銀行の支店長さんは、どなたも人間味豊かな人達である。先日、主力銀行の支店長さんに、この度出版させて頂いた私の本「わが遍路みち」を差し上げたところ早速お読み頂いて、苦労した私の子供時代をところで涙が出て感動した、と電話の向こうで涙声になってお礼を言われた。人柄が滲み出たお礼の言葉にこちらの目頭が熱くなる。
  その人柄のように雨が降ってくるとそっと傘を差し出してくれる銀行であってほしいと思うのだが、現実はまだまだ厳しい。
 
第174号 2度目の同窓会
2007-07-01
  高校を卒業してやがて半世紀が過ぎようとしているが、その間に同窓会をしたのは一回だけと言うクラスも珍しい。どうやら世話好き人間は工業高校には来ないようだ。それでも電気科卒業の四十五人の中で電気の技術屋になったのはほんの数人で、ほとんどが何かの営業屋になっていた筈だが、私と同様に根は社交性に欠けているのだろう。あちこちから同窓会をやろうぜ、と言う声は聞こえるのだが、案内を出す者がいない。

  二十年程前の貴重な一回目の時もそうであったが、今回もそのお鉢は私に回って来た。
  私には改めて同窓会をしなくても、常に十人ほどはことある毎に集まっているから、それほど関心はないのだが、六十歳も半ばを過ぎて集まってみるのも楽しいかと今年の初めに案内状を出す。実施日はゴールデンウィークの前日(四月二十七日)を選んだ。随分先の案内であったが、月日は過ぎてみると早い。

  当日の出席者は十七名。なんのことはない、常時集まっているのに六人増えただけ。しかし、この六人が大事なのかも知れない。その内の三人は全く顔が分からない。街中で会っていても気は付かないだろう。しばらく話していると三年間共に学んだ面影はなんとなく見えてくる。旧交を温めるとはこのことを言うのだろう。
  めっきり白髪が増えたのはお互いの共通したところだが、突然、見事に光輝く頭をしたのが現れたのには驚いた。ついこの間までは薄くなりかけていた感じはあったが、いつの間にか、テカテカ艶々になっている。

  近況を順番に話してもらう。さすがに六十数年の人生を歩んで来ただけあって、夫々に思いが籠る話になる。
  未婚の子供を抱えているのが三人、未だ孫がいないのが二人。三年前に孫を二人残してひとり息子が三十九歳で亡くなった気の毒な爺さんも、やっと踏ん切りがついたのか、町の民生委員などをして明るく元気である。
  物故者は四人で、その内の二人は三十歳半ばで共に職場で倒れて急逝されたが、これは日本の高度経済成長期の犠牲であったのだろう。一人は原因不明。もう一人は有名外資系の企業に勤めて、その子会社の役員にまでなって、定年退職した後、昨年に死去、こちらは明らかにアルコールの犠牲だ。

  昨年(平成十八年)の四月に我々のグループの長崎旅行に東京から参加をして天草五橋を共に渡って、雲仙の温泉に浸ったが、その時すでに手の震えをアルコールで止めていた。心配をする我々に「心配ない、酒飲めば直る」と豪快に笑っていたが、気持ちとは裏腹に体は相当蝕まれていたのだろう、その二ヶ月後同じように、他のメンバーと旅行中に倒れてそのまま帰らぬ人になった。
  好きな酒を飲んで好きな旅行も楽しんで本人には満足な人生であったかも知れないが、残された家族を思うと、もう少し自制心があってもよかったように思われるが、全て後の祭りである。

  前回の同窓会で同級生の葬儀に花輪もないのはさみしいと、その時の為に全員一致で集めた会費で初めて同窓会として花輪が捧げられた。
  次回は三年後、と約束をしたが、この十七名が全員元気であることは当然として、今回よりも何人か増えたメンバーで、元気に古希を迎えられる祝宴になるように願っている。
 
第173号 二人の死
2007-04-01
  年が明けて、はじめの日曜日と次の日曜日二週続いて葬式に行く。元同僚とお得意さんが亡くなった。元同僚は私よりも二歳下、お得意さんは二歳上。どちらも心筋梗塞のようで突然死同様の逝き方であった。

  気持ちでは若いつもりでも、すでにいつ死んでも不思議ではない年齢に差し掛かっているのを実感する。

  そう言えば今の私の歳に父は軽い脳梗塞で倒れていた。そのまま六年余り寝たきりで亡くなった。

  元同僚は前日にはゴルフに行って、当日は同級生と歓談したりしていたのに、その夜、亡くなったらしい。酒は好きだったが、それが原因かどうかは分からない。六十歳前後で亡くなる人は大抵酒が好きだと私は思い込んでいるが、それにしても命とは真にあっけなく終わるものだ。本人は苦しみもなく、周りに迷惑もかけずに逝ってよかったのだろうが、残された人は心の整理が出来るまでに時間がかかる。

  風の強い日であった。自宅で執り行われた葬儀には同級生が大勢来られていたようだが、皆一様に信じられない様子であった。

  お得意さんは酒は飲まなかった。離れで一人寝ていて、毎朝息子さんが新聞を決まったところに置いておくのだが、その朝、新聞を持って行くと昨日の新聞がそのままになっていたので、おかしいと部屋を覗くと大の字になって亡くなっていた。辺りに暴れた様子もなく眠ったまま息絶えたらしい。

  家庭的には恵まれず、食事も不規則であったらしい、最期は誰にも看取られず一人で逝かれた。

  若い時から商売を始められて景気の良い時代を過ごされて、担当者として訪問する度に羨ましく思ったものである。

  個性が強かった性か、人の評価は分かれていたが、私の学校の先輩でもあった関係か、取り分け大事にしてもらったし、助けても、もらった。

  他のお得意さんから受注した商品(専門用語で高圧受電装置)でメーカーに発注しても納期が間に合わないものを、無理を言って制作をしてもらったこともあった。電機屋なら当然かも知れないが、それだけの技術はもっておられた。それを慣れないレンタカーのトラックに載せて淡路島まで運んだのを昨日のように思い出す。四トントラックを運転したのは後にも先にもその時だけだ、よくも無事に行けたものと思い出す度に背筋が寒くなる。

  当時ようやく普及し始めたレーザーカラオケの最新の機器を購入されて楽しんでおられた。

  夜、何度かお邪魔をしてビデオテープにダビングをしてもらったのが懐かしい。

  そのお得意さんはリバイバルソングで有名な歌手と同姓同名で夜の巷で飲食代の伝票にサインをしては女の子にもてたと得意気に話していた。酒は飲めなくても雰囲気が好きだったのだろう。毎夜、繁華街に繰り出していたようだ。それでも困らない収入が得られていた景気の良い時代だった。

  一人息子さんとは、意見が合わず、息子さんは父とは仕事を一緒にせずに、今は同業店で働いておられる。修行が出来れば、いずれ父の後を継いで独立されるように、私は期待をし、確信もしている。その時には出来る限りの応援をさせてもらわなければならない。
 
第172号 樫の木
2007-01-01
  思案の末、やっぱり撤去することにした。
  父が植えた思い出の木でもあるので、そのまま坪庭の中心に残しておきたかったのだが、増築の工事が進むにつれて、どう見ても邪魔な存在になってきた。

  大工さんも気を遣って、木を傷めないように作業をしてくれていたが、誠に申し訳ないことをした。はじめから除けておけば手間がどれだけ省けたことか。

  私の部屋が四畳半で以前から広げたいとは思っていたのだが、息子が結婚をして独立、母が逝って、娘が嫁いで家を出た。夫婦二人になって今更増築する必要はないのだが、家相的に私に合っていると言われたこともあってか、なぜか落ち着ける部屋になっていた。なんとなく人生の終焉を迎える部屋に思えてきて、それならゆったりと過ごせる部屋にしようと増築をすることにした。

  北へ一間半ほど、石垣まで一杯に伸ばすのだが、そうするとその樫の木が部屋と車庫と物置に囲まれてしまう。

  そこを坪庭にすると風情があって楽しい、と設計士も言ってくれたので、樫の木は残すつもりで工事が始まった。

  部屋が出来てくると坪庭にするにはいかにもせせこましい。この際物置も除けて広くウッドデッキ風にすると使いがってもよさそうである。さて、樫の木はどうするか。

  デッキは樫の木の部分をくり貫けば出来ないことはないが、雨避けの屋根を付けるには木が高すぎる。 どう考えても残す方法はなさそうである。

  神主さんを招いて庭師さん同席でお払いをしてもらって、伐採が始まった。やはり残すべきであったかと、一瞬後悔の念がよぎったが庭師さんは容赦なくチエンソーで切り取っていく。

  いとも簡単に終了したように思えた。

  その後、問題は根株の除去、増築前なら重機が入って簡単に掘り起こせたのだが、それが入らないとなると人力しかない。工務店の監督さんと、従業員の二人で、夏の盛りに二日かかりで掘り上げてくれる。立っている時は、それほどの大木とは見えなかったが、さすがに七十年の歳月相応に育っていた。切り倒してみると幹の直径は四〇センチ、掘り起こした根株は長さが一メートル近くもある。その幹の太い部分と根株は捨てるのが忍び難く、大切に保管してある。いずれ何かに加工して記念に残しておこう。

  人情の機微が解る父と思ったことはないが、この樫の木を見ていると必ず父が浮かんでくるのはなぜか。父が植えたと言う確証もないが、幼い時からそう信じていた。当時、我が家と隣の畑との境界杭の代わりに植えたと私は思っている。その境界線を巡って言いがかりを付けられて、なんとも嫌な思いをさせられて、幼な心が傷付き、それが原因で田舎嫌いになってしまったのだが、そのようなことはなにも昔の田舎の話だけではなかった。現在にも都会にも醜い人間のエゴは日常茶飯事あることだ。それが年とともに図太く鈍感になって、少々のことには動じない知恵がいつの間にか備わってきたのは、私にとって喜ぶべきことか、悲しむべきことか。父はそんなことには一切無頓着な他人の目は気にしない純粋な人だったようで羨ましくもある。

  父の二十三回忌も平成十八年の初めに済ませていたが、その時以上に父を思い出させる樫の木の伐採であった。
 
第171号 大連
2006-10-01
  目の前の信号は青、横断歩道をまっすぐに歩いて行くと突然右折してきたタクシーが私に突進してきた。咄嗟に飛びのいて難を逃れたが、添乗員からくれぐれも車に気をつけて下さいと言われていたのを思い出す。歩行者優先に慣れきった私には肝を冷やした一瞬であった。    

  社内旅行で大連を訪れた時に、駅前のホテルから町の中心の中山広場まで夜の中国の雰囲気を楽しみながら歩いてみようと一人で出掛けたのだが、気楽に歩いていては命を落としかねない。現地の人の話では中国の年間交通事故死亡者数は十万人位だそうだ。人口を考えると日本と大差はない。車の普及率、地域差など単純には比較は出来ないかも知れないが、行き交う車の間をすり抜けて行く歩行者の危険な姿を見ていると事故死が日本と同じ率とは考え難い。

  中山広場は、日が暮れると市民が集まって来て、民族舞踊に社交ダンス、若者は羽の付いた小さな蹴鞠のような遊びを楽しんでいる。
  円形の広場から放射状に大通りが十本ほど延びていて、昼間何度かバスで通ったから十分に覚えているつもりが、三百六十度回ってみると方向が分からなくなって、来た道を探すのに一苦労、それでもなんとか余分なウオーキングをして無事にホテルに着く。

  大連の駅は上野駅と同じ人が設計をして非常によく似ていると説明があったので是非覗いてみようと思ったのだが、ホテルの九階の部屋の窓から真下に見える駅、駅前広場、道路を行き交う人と車の動きを見ていると恐怖感が沸いてきて、その中には入って行く勇気はなかった。 

  大連はその港から終戦後、多くの日本人が引き揚げて来たと言うことくらいの誠に乏しい知識で訪れたのだが、その町並みは世界に誇る美しい町と言われるシンガポールにも劣らぬ美しさと私には見えた。現地の商人に案内されて裏通りにも入って行ったが、目を背けたくなるような光景はなかった。

  日本人が引き揚げた桟橋は昔のままだそうだ。向かいの元大連埠頭事務所の屋上から見下ろすと、戦争に敗れて命からがら船に乗り込む日本人の姿が浮かぶ。あれから数十年経って、日本も中国も今はこうして観光で行き交うことが出来る幸せな時代になった。驚いたことに現地のガイドさんが

  「遍路宿の随筆読ませてもらいました」 

  えっ? 怪訝な顔をしている私に、

  「おたくの会社のホームページを開いたら載っていました」

  今はそんな時代になっているのだ。例え一人でも異国の大連で読んでくれた人がいるのは嬉しい。 

  休日で市内最大の公園「星海公園」には家族連れが溢れ、その日が吉日であったのか、海岸沿いに点在する公園にウエディングドレスのカップルが百組以上はいただろう。それぞれ幸せのポーズで記念写真に納まっている。その数の多さに異様な感じがしないでもないが、衣装も顔も日本人と変わらない。

  入口を入った正面に巨大な象の剥製がある自然博物館、館長さんが流暢な日本語で親切に説明をしてくれる。地球の成り立ち、自然の不思議、聞き入っている間に最後の展示室に入る。豪華な紫檀や黒檀のケースの中に、宝石の原石に中国独特の細工をした飾り物が、収められている。説明を聞きながらその繊細さに感心をしていたら、いつの間にか説明がセールスに変わっている。さすがに華僑の本家、高価なお土産を買わされてしまった。
 

第191号  灰になるために生まれてきたんじゃない

第191号  灰になるために生まれてきたんじゃない
 
灰になるために生まれてきたんじゃない

出来たばかりのコンクリート舗装の路上に白い大きな犬の死体が横たわっていた。

開通間もない国道十一号。現在は県道三十三号になっているが、私が高校に通っている三年間に工事が進められて、出来上がった真新しい路面に無残な姿があった。最近では路上に死んでいる犬猫を見るのは珍しくもなくなったが、半世紀も前の光景が強烈に脳裏に残っている。今も通勤時に通る道である。

悲惨な交通事故死は人間も同様で悲しむべきことであるが、その犬猫の命が不慮の死ではなく、まるで売れ残ったコンビニの弁当のように処分されていると聞くと人間のおぞましさに恐怖感を覚える。

それは連日報道される幼児虐待、いじめ、陰惨な殺人事件等殺伐とした世相に現れているようにも思える。

知人が「小さな命の写真展」として、保険所等で殺処分される前の犬猫の表情を写した写真展を常盤街商店街、ホームセンター、駅構内、市役所等々で開催している。

この命、灰になるために生まれてきたんじゃない。全国で一日に約一千頭の犬猫が二酸化炭素に依って殺処分されている。香川県は人口当たりの殺処分数は全国ワースト五位だそうだ。その費用は全国で二十四億円と聞くこれ全て税金で賄われている。

人の癒しの為に、命の尊さを共有する筈のペットが心ない一部の人と思いたいが、無責任に捨てられ殺される。

写真展の会場で売られていた児童書のノンフィクション作家、今西乃子著「犬たちを送る日」の冒頭の部分を要約して紹介したい。

一九七八年、野犬の撲滅対策として、ある県での犬の買い上げ制度を設けたときのことである。

犬を保険所に持ち込んだ県民には一頭五百円の報酬を出す。

そこに小学生三人が七匹の子犬を持ち込んだ。

「すみません、これ買うてくれるんですか?」

「これ?どうしたいん?」

「犬、一匹ここに持ってくれば、五百円くれるって聞いたけん。七匹で三千五百円やけんね。お金くれん?」

当時の三千五百円といえば、かなりの高額である。

「そのお金、何につかうんや?」

「プラモデルじゃけん!欲しいプラモデルがあるで、それ買いたいんや!はようお金ください」

「君らが連れてきた子犬、ここに来てどうなるか知っとるか?」

「・・・?」

「あのな、ここに連れてこられた犬は、みんなあと数日で殺されてしまうんや。この子犬もそうじゃけん。みんな殺されてしまうんやで。それでもええんか?」

「かまわんけん!はようお金ください!はよう行かんと、プラモデルやさん、閉まってしまうけん」

 親が教えたのだ。

「そんなに小遣いがほしかったら、野良犬の子犬を見つけて保険所へ持って行け」と。 

 命を金に換え、そのお金で自分たちの欲しいものを手に入れようとする少年達、それを容認する大人達がたまらなく悲しく思えた。

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