エスエヌデー株式会社|電設資材|照明器具|空調機器|住宅設備機器|家電製品|情報機器販売|香川県坂出市

 
 
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第157号 名刺
2003-04-01
  名刺ホルダーを整理している時に、仕入れ先のメーカーから電話が入る。同じメーカーであっても商品によって窓口が異なる。その電話は普段取引のない部署であったので、用件を社員に聞かせて、私は電話に出なかった。
  「帰られたら電話下さい」のメモの最後に覚えのある名前が書いてある。開いていた名刺ホルダーで確認すると、十数年前の弊社担当のモーター営業マンである。慌てて電話をすると懐かしい声が聞こえてくる。
  弊社の担当を離れるとすぐにモーターから食品機器担当に変わって、東京で勤務をされていたが、この度四国の総責任者として帰って来られたと言う。
  いつも感心することだが、一流企業の営業マンは担当商品が変わっても、それを簡単にこなして仕事が出来る。これが一流企業の社員たる所以か。
  早速、坂出から高松まで車を走らせて合いに行く。お互いに頬の肉は増えたようだが、変わりない姿に安堵して近況を報告しあった。
  希望退職、リストラ旋風が吹き荒れた中でも、仕事が出来る人にはなんの影響もなかったようだ。
  その当時、私は弊社のモーター担当者としてお世話になり、縫製用のモーターは弊社の売上の主力商品でもあった。
  お得意先を招待して、北海道へ、沖縄へと行けたのだが、この業界はいち早く生産拠点を人件費の安い海外に移して、今では国内は壊滅状態、現在の売上は限りなくゼロに近い。長引く日本経済の不況の要因である。
 
  不況といえば大阪でお世話になった会社の当時の営業責任者であった方が独立されて、難波で二十年余り商売をされていたが、お気の毒に近年自己破産された。十年ほど前に挨拶に伺ったときの名刺は今はさみしそうにホルダーの片隅にある。
  輝いた人生を送られている人は名刺も輝いて見える。
  私がこの業界に入った当初に、一緒に得意先回りをしてくれたメーカーの若い主任さん。体格も良く豪快な人であった。
  「どんな時も、どんな場所ででも決して隅っこにはおるな、目立つところに居ろ」
  「親から常にこう言われてまんねん」
  と豪快に笑った。その姿は誠に大きく見えた。間もなく近郊の営業所の課長に栄転されたが、後々までなにかとお気遣い頂いた。
 
  私が香川に帰って何年か経って、ある商品の説明会で来県されて再会、出された名刺にはその商品の事業部長の肩書き、そして取締役になって九州の営業統括。関連会社の社長を経て現在は本社の名誉顧問。
「栴檀は双葉より芳し」を実感させてくれた人である。
  三人三様の人生が名刺からうかがえるが、これまでに頂いた名刺を収めるのに、A4判で厚さ五十ミリの名刺ホルダー三冊にもなった。その中で名刺を見て顔が浮かんでくるのは極わずか、ほとんどがほんの瞬間の出会いであった人達ではあるが、それでも捨て切れないでいる。
  名刺に思わず頭を下げたくなる人、中には破り捨てたい人のもあるが、皆それぞれに今日の私を育ててくれた人達。一枚一枚に感謝をしながら、私の名刺もどこかで大切にされていることを願う。
 
第156号 ガーデニング
2003-01-01
  三時間の生放送、リハーサルを入れると数時間。テレビカメラの前で座っているのは疲れる。もっとも自分の姿がテレビに映ったのは、ほんの二、三分間。
  NHK・BS2で「わたしのアイデアガーデニングコンテスト2002」の番組で、全国の応募の中から二十五組が選ばれたが、なんとその中に家内が応募していたわが家の庭が四国では唯一入ってしまった。選ばれたのは当初は二十七組だったそうだが、一人は辞退され、もう一人はプロで失格になったようだ。
  家内が退職後、四年ほど前から、それまで母が季節の野菜を植えていた菜園を花畑にして最近ブームのガーデニングを始めた。私はただ、頼まれるままに、バラのアーチやラティスの取りつけ、角パイプで藤棚やぶどう棚を作ったり、重さ百キロ余りの大理石を十二、三個ほど並べてテラスにしたり、これらはガーデニングよりも私の趣味の世界であったのだが、取材に来られたNHKの方がえらく感心されて、私もテレビに引っ張り出されてしまった。
 
  六月十五日に取材に来られて放送日は十月十四日の午後一時から四時まで。
  二十五組の内訳は、ワンポイント部門が五組、五坪以内のミニガーデン部門が八組、五坪以上無制限のガーデン部門が十二組。ガーデン部門の中には千五百坪の広大な庭を造っている人もいた。わが家は庭だけの面積はせいぜい二百坪程度。もっとも広ければ良いと言う訳ではないが、審査は芸術点、技術点、生活点について採点されたようだが、その基準は分からない。
 
  残念ながら賞には入らなかったが、貴重な体験をさせてもらった。
  スタジオには首都圏から募集した百人のガーデニング愛好家に、二十五組の応援団が三十人余り。審査員はゲストの伍代夏子さんを入れて六人。それに放送スタッフ。テレビカメラが数台。総勢二百人余りの人達を前にして一段高いひな壇に、ガーデン風の窮屈な椅子に座らされる。これは緊張する。
  上がり症のの私には耐え難い場所ではあったが、それでも馬齢を重ねたお陰か、比較的落ち着いて座っている自分が不思議でもあった。
  番組の進行は俳優の小西博之氏とNHK兼清麻美アナウンサー。
  ワンポイント部門から二組ずつ取材テープを流して本人にインタビュー。審査員が講評をする。この繰り返しで三時間。
  エントリーナンバー二十三のわが家は最後から二番目。
  わが家の庭が全国放送のテレビに映し出されている。
  「坂東さんのお宅は三種類の庭が楽しめる。一つはバラ園、そしてイングリッシュガーデンをイメージしたベンチのあるミニ公園。もう一つは日本庭園・・・」
  アナウンサーのナレーションは見事で、その時、私にはふと自分の歩んできた日々が浮かんでいた。
  戦時中に母親の里に疎開して終戦。貧しさの中、子供心に家への強いあこがれをもって育った。そしてサラリーマンの生活の中から家内の協力を得て、少しずつ土地を買い足し、家を建てやっと庭を楽しめるようになった。
 
  今回、NHKのテレビに出演出来たのは一歩一歩築いてきた、わが家の集大成であったかも知れない。
 
第154号 太閤園
2002-07-01
  桜の通り抜けで有名な大阪造幣局の川向かいに藤田観光経営の太閤園がある。
  百年近くの歴史がある七千坪の園内には宴会場、料亭、チャペルに築山式回遊庭園があって、中に入ると都会の真ん中とは思えない落ち着いた雰囲気がある。
  そこで毎年四月の下旬にインターホンの専門メーカーによる代理店への感謝会が催される。この不況下にあってもそのメーカーは順調に業績を伸ばして今年も例年と変わりなく開催された。私にはこの太閤園に格別の思いがある。
  電設資材総合卸業という現在の業界に入って、営業として第一歩を踏み出した時のお得意先の一件であった。
  蛍光灯の球、電線、その他メンテナンス資材を電気室に届けては、そこの担当者とよく話をした。電気にかかわることだけではなかった。その人は社交ダンスも上手であったようだし、後に全国で爆発的にブームになったボーリングも、当時は大阪でも桜橋に一カ所あっただけで、そんなに知られたゲームではなかったが、スコアの付け方はその時にばっちりと教えてもらっていた。ゲームをするのに二、三時間も待たされるのが当たり前になったのはそれから数年以上も後のことである。
 
  夏には都会の人たちが納涼のひとときを過ごす「蛍の夕べ」が催された。
  広い庭に蛍が飛び交う。その庭に生息する自然の蛍ではなくて、なんとその蛍は香川県塩江から運ばれたものであった。電気室の担当者が岩陰に隠れてかごからすこしづつ放していく。お客さんは大喜びで光を追う。頼まれて蛍放しを手伝ったこともある。
  先日確認するとこの蛍の夕べは二、三年前から残念ながら中止になっていた。塩江の蛍も少なくなったのだろうか。
 
  クリスマスパーティーの大津美子のショーには社員全員で見に行った。
前座で何人か歌った後に、「ここに幸あり」「東京アンナ」等ヒット曲を目の前で歌ってくれる。好きな歌手の一人ではあったのだが、歌った後の印象が悪かった。前座の歌手は全員花束を受け取り、にこやかに一礼して下がったが、大津美子は歌い終わると花束を渡そうとする人を無視するように、フンと横を向いて舞台の裏に入った。聴衆の態度が気に入らなかったのか体調が悪かったのか、その時の歌手の心情は知る由もないが、有名になると人はこうなるのかと、さみしい思いがしたのを時折テレビでその姿を見る度に思い出す。
 
  お得意先であるから当然私の会社の社長も何かにつけてそこを利用する。
あるとき「太閤園の電気室の人が今度の担当者はよくしてくれると君の事を褒めていたぞ」と社長に言われたのは思いがけなかったが、それは私のようなものでも営業が出来るかも知れないと感じさせられた一言でもあった。
  高級ホテルの大宴会場で有名タレントを呼んでの豪華なパーティーも楽しいけれど、この太閤園の感謝会には豪華さはないけれど、私には三十余年の歩みを振り返る貴重なひとときを与えてくれる宴である。
  毎日のように通った当時の電気室はなくなって近代的な四階建ての宴会場になっているが、人生の思い出の地として、インターホンのメーカーに感謝しながら毎回訪れるのを楽しみにしている。
 
第153号 白い花の咲く頃
2002-04-01
  高校の体育館いっぱいに広がるプロの歌声。
  「白い花が咲いていた、ふるさとの遠い夢の日さよならと言ったら・・・」
  初めて聞いた歌手の生の歌。
  卒業生を送る予餞(よせん)会で生徒達の、のど自慢のあとに、高松市の常盤街で靴店を営んでいる、元キングレコードの専属歌手であった人が、この曲を歌ってくれた。
  生徒の歌声とはまったく違った、体育館いっぱいに広がる声量にさすがにプロはすごいと驚きと感動をおぼえた。それからすっかり、この「白い花の咲く頃」の虜になってしまった。
  昭和二十五年にNHKラジオ歌謡として岡本敦郎がうたった曲らしいが、その当時のことは知らない。
先年亡くなられた大歌手の春日八郎とも同じステージで歌っていたというその人が、なぜ田舎の高校の予餞会に来てくれたのかは知る由もないが、そのわが母校の校歌はなんと木下忠司、作詞作曲である。
 
  うわさに聞いた話で申し訳ないが、わが校の電気科先生がこの木下忠司氏と戦友であったらしい。そこでこの坂出に来られて風土、景色を見てつくられたそうだ。
  「讃岐なる富士を背にして、内海の瀬戸にのぞみぬ、真白なる塩のめぐみと、まことなる人の心にはぐくまれ・・・」
 
  在学中は作者が有名人で、それを誇りに感じていたぐらいであったが、あらためて鑑賞すると詩も曲も校歌らしからぬ、まことに詩情豊かである。
  最後のフレーズも校名は入れずに
  「若人は技をみがきぬ、心みがきぬ」
と締めくくっている。
  時代の流れとともに「塩のめぐみ」もなくなり、三番の歌詞にある「男の子、集いて」も、最近は女性が何十人か学んでいて随分様変わりをしてきたが、学校に確認すると校歌はそのまま使われていた。卒業生として安堵する。
  「白い花の咲く頃」と校歌はなんの関係もないが、元歌手を呼んだのも、校歌の制作を依頼したのも今は亡き恩師であると思えば、私にとっては同じように忘れられない歌である。
  六十の手習いで、ピアノを習いだしたのもこの「白い花の咲く頃」を弾きたいがためであるといっても間違いはない。
  「作詞寺尾智沙、作曲田村しげる」この両氏が夫婦であることも、高校生の私には憧れであった。
聞き覚えで、カラオケでは得意そうに歌っていたが、楽譜を前に3連音符、半音下がり、タッカのリズム。
  正式に教えられるとまことにはずかしい思いがする。それでもなんとか弾き歌いの可能性が出てきたが、そこでまた新たな難問が----。
  カラオケのスピーカーを通した豊かな音量に比べて頭の骨から響いてくるわが肉声のなんと頼りないこと。これをどう克服するか。
  「白い花の咲く頃」からはじまってカラオケのレパートリーを増やせたようにピアノもそうあって欲しいと期待している。
  それにしても音楽のなんの基礎知識をもたない私に、気長にやさしく教えてくれるピアノの先生には感謝の念しきりである。
 
第152号 ウォーキング
2002-01-01
  平成十四年、初日に輝く陸上競技場。
  そのトラックの一番外側のコースをさっそうと歩いているのは、身長百七十九センチ、体重が八十キロ になっているであろう私である。
  三年ほど前の定期検診で突然血圧が高いことを告げられる。中性脂肪も許容範囲を越え血糖値も危険域に入っている。
  タバコは元々興味がなく、アルコールはお付き合い程度、食事は好き嫌いなく頂く。ストレスはため ず、こんな私が病気になるのなら世の中すべての人が病気になるだろうと健康には自信満々であったが、 そのうぬぼれが災いしたのか。肥え過ぎて体重が九十キロを越えてしまった。
  身長百七十六センチ。体重六十七キロ。これが高校三年間を通して変わらなかった。中学生でバレーボ ールに励んだお陰で伸びきってしまったのだろう。
  わが体型は決して肥えることはないと確信していたのだが、飽食の時代になって素直にそれを享受し てしまったようだ。
  まず体重を減らしなさいと検診の後で栄養士さんの指導を受ける。ハイハイと素直に聞いてはいたのだが、食事になると、いつどこででも出されたものはこれまた素直に頂いてしまう。人として一番大切な事に思える素直さも時に災いをする。減量と言う意識は常にあっても、いざなにをどう実行するかとなるとぼやけてしまう。
  昨年、還暦の記念にと同級生五人で富士登山をした。前年から十キロは減らしておこうと休日には二、 三時間のウォーキングもやっていたのだが、その効果は全く表れず、九十キロを山頂に運ぶには相当な 苦闘であった。
  高血圧と言われてから三度目の検診でついに血圧降下剤の投与を言い渡される。これにはさすがにショ ックを受ける。
  意を決して、毎日一時間のウォーキングを義務づけた。太陽が夏の日差しになりかけたころである。 夕方、帰宅してすぐに歩き始める。
  当初は国道の歩道を歩いていたが、段差や信号、排気ガスもあって歩きにくい。それに犬を散歩させているのに合うとなんとも気持ち悪い。飼い主は犬と一緒で楽しんでいるのだろうが傍迷惑この上ない。
  ふと気が付くと、わが家から歩いて数分のところに町の立派な運動公園があったのだ。
  体育館、テニスコート、陸上競技場と町民のために夜間照明も完備されて大勢のひとが利用している。
  どんな人たちがいるのか、最初はその中に入りづらいように思えたが、それぞれがマイペースで歩いている姿を見て安堵する。大勢いても干渉されるような目を感じないのがなによりもいい。
  夏の盛りにも汗びっしょりかいて、休むことなく毎日一時間、歩き続けて半年あまり。なんと七キロの減量に成功。今年中に十キロの減量は間違いないだろう。
 
  「古い背広一万円で下取り」のコマーシャルが流れた時に、体に合わなくなったのをよほど出そうかと思ったが、当時としては奮発して買った背広。手放すのは忍びなくタンスの奥にしまったままになっていた。もしかしてと一着一着着てみる。なんとすでに数着はぴったりと合うではないか。後の数着も この調子でいくと着られる可能性が出てきた。
  この年になって、はじめて努力して目標を達成した充実感を味わっている。
 

第191号  灰になるために生まれてきたんじゃない

第191号  灰になるために生まれてきたんじゃない
 
灰になるために生まれてきたんじゃない

出来たばかりのコンクリート舗装の路上に白い大きな犬の死体が横たわっていた。

開通間もない国道十一号。現在は県道三十三号になっているが、私が高校に通っている三年間に工事が進められて、出来上がった真新しい路面に無残な姿があった。最近では路上に死んでいる犬猫を見るのは珍しくもなくなったが、半世紀も前の光景が強烈に脳裏に残っている。今も通勤時に通る道である。

悲惨な交通事故死は人間も同様で悲しむべきことであるが、その犬猫の命が不慮の死ではなく、まるで売れ残ったコンビニの弁当のように処分されていると聞くと人間のおぞましさに恐怖感を覚える。

それは連日報道される幼児虐待、いじめ、陰惨な殺人事件等殺伐とした世相に現れているようにも思える。

知人が「小さな命の写真展」として、保険所等で殺処分される前の犬猫の表情を写した写真展を常盤街商店街、ホームセンター、駅構内、市役所等々で開催している。

この命、灰になるために生まれてきたんじゃない。全国で一日に約一千頭の犬猫が二酸化炭素に依って殺処分されている。香川県は人口当たりの殺処分数は全国ワースト五位だそうだ。その費用は全国で二十四億円と聞くこれ全て税金で賄われている。

人の癒しの為に、命の尊さを共有する筈のペットが心ない一部の人と思いたいが、無責任に捨てられ殺される。

写真展の会場で売られていた児童書のノンフィクション作家、今西乃子著「犬たちを送る日」の冒頭の部分を要約して紹介したい。

一九七八年、野犬の撲滅対策として、ある県での犬の買い上げ制度を設けたときのことである。

犬を保険所に持ち込んだ県民には一頭五百円の報酬を出す。

そこに小学生三人が七匹の子犬を持ち込んだ。

「すみません、これ買うてくれるんですか?」

「これ?どうしたいん?」

「犬、一匹ここに持ってくれば、五百円くれるって聞いたけん。七匹で三千五百円やけんね。お金くれん?」

当時の三千五百円といえば、かなりの高額である。

「そのお金、何につかうんや?」

「プラモデルじゃけん!欲しいプラモデルがあるで、それ買いたいんや!はようお金ください」

「君らが連れてきた子犬、ここに来てどうなるか知っとるか?」

「・・・?」

「あのな、ここに連れてこられた犬は、みんなあと数日で殺されてしまうんや。この子犬もそうじゃけん。みんな殺されてしまうんやで。それでもええんか?」

「かまわんけん!はようお金ください!はよう行かんと、プラモデルやさん、閉まってしまうけん」

 親が教えたのだ。

「そんなに小遣いがほしかったら、野良犬の子犬を見つけて保険所へ持って行け」と。 

 命を金に換え、そのお金で自分たちの欲しいものを手に入れようとする少年達、それを容認する大人達がたまらなく悲しく思えた。

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