エスエヌデー株式会社|電設資材|照明器具|空調機器|住宅設備機器|家電製品|情報機器販売|香川県坂出市

 
 
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第154号 太閤園
2002-07-01
  桜の通り抜けで有名な大阪造幣局の川向かいに藤田観光経営の太閤園がある。
  百年近くの歴史がある七千坪の園内には宴会場、料亭、チャペルに築山式回遊庭園があって、中に入ると都会の真ん中とは思えない落ち着いた雰囲気がある。
  そこで毎年四月の下旬にインターホンの専門メーカーによる代理店への感謝会が催される。この不況下にあってもそのメーカーは順調に業績を伸ばして今年も例年と変わりなく開催された。私にはこの太閤園に格別の思いがある。
  電設資材総合卸業という現在の業界に入って、営業として第一歩を踏み出した時のお得意先の一件であった。
  蛍光灯の球、電線、その他メンテナンス資材を電気室に届けては、そこの担当者とよく話をした。電気にかかわることだけではなかった。その人は社交ダンスも上手であったようだし、後に全国で爆発的にブームになったボーリングも、当時は大阪でも桜橋に一カ所あっただけで、そんなに知られたゲームではなかったが、スコアの付け方はその時にばっちりと教えてもらっていた。ゲームをするのに二、三時間も待たされるのが当たり前になったのはそれから数年以上も後のことである。
 
  夏には都会の人たちが納涼のひとときを過ごす「蛍の夕べ」が催された。
  広い庭に蛍が飛び交う。その庭に生息する自然の蛍ではなくて、なんとその蛍は香川県塩江から運ばれたものであった。電気室の担当者が岩陰に隠れてかごからすこしづつ放していく。お客さんは大喜びで光を追う。頼まれて蛍放しを手伝ったこともある。
  先日確認するとこの蛍の夕べは二、三年前から残念ながら中止になっていた。塩江の蛍も少なくなったのだろうか。
 
  クリスマスパーティーの大津美子のショーには社員全員で見に行った。
前座で何人か歌った後に、「ここに幸あり」「東京アンナ」等ヒット曲を目の前で歌ってくれる。好きな歌手の一人ではあったのだが、歌った後の印象が悪かった。前座の歌手は全員花束を受け取り、にこやかに一礼して下がったが、大津美子は歌い終わると花束を渡そうとする人を無視するように、フンと横を向いて舞台の裏に入った。聴衆の態度が気に入らなかったのか体調が悪かったのか、その時の歌手の心情は知る由もないが、有名になると人はこうなるのかと、さみしい思いがしたのを時折テレビでその姿を見る度に思い出す。
 
  お得意先であるから当然私の会社の社長も何かにつけてそこを利用する。
あるとき「太閤園の電気室の人が今度の担当者はよくしてくれると君の事を褒めていたぞ」と社長に言われたのは思いがけなかったが、それは私のようなものでも営業が出来るかも知れないと感じさせられた一言でもあった。
  高級ホテルの大宴会場で有名タレントを呼んでの豪華なパーティーも楽しいけれど、この太閤園の感謝会には豪華さはないけれど、私には三十余年の歩みを振り返る貴重なひとときを与えてくれる宴である。
  毎日のように通った当時の電気室はなくなって近代的な四階建ての宴会場になっているが、人生の思い出の地として、インターホンのメーカーに感謝しながら毎回訪れるのを楽しみにしている。
 
第153号 白い花の咲く頃
2002-04-01
  高校の体育館いっぱいに広がるプロの歌声。
  「白い花が咲いていた、ふるさとの遠い夢の日さよならと言ったら・・・」
  初めて聞いた歌手の生の歌。
  卒業生を送る予餞(よせん)会で生徒達の、のど自慢のあとに、高松市の常盤街で靴店を営んでいる、元キングレコードの専属歌手であった人が、この曲を歌ってくれた。
  生徒の歌声とはまったく違った、体育館いっぱいに広がる声量にさすがにプロはすごいと驚きと感動をおぼえた。それからすっかり、この「白い花の咲く頃」の虜になってしまった。
  昭和二十五年にNHKラジオ歌謡として岡本敦郎がうたった曲らしいが、その当時のことは知らない。
先年亡くなられた大歌手の春日八郎とも同じステージで歌っていたというその人が、なぜ田舎の高校の予餞会に来てくれたのかは知る由もないが、そのわが母校の校歌はなんと木下忠司、作詞作曲である。
 
  うわさに聞いた話で申し訳ないが、わが校の電気科先生がこの木下忠司氏と戦友であったらしい。そこでこの坂出に来られて風土、景色を見てつくられたそうだ。
  「讃岐なる富士を背にして、内海の瀬戸にのぞみぬ、真白なる塩のめぐみと、まことなる人の心にはぐくまれ・・・」
 
  在学中は作者が有名人で、それを誇りに感じていたぐらいであったが、あらためて鑑賞すると詩も曲も校歌らしからぬ、まことに詩情豊かである。
  最後のフレーズも校名は入れずに
  「若人は技をみがきぬ、心みがきぬ」
と締めくくっている。
  時代の流れとともに「塩のめぐみ」もなくなり、三番の歌詞にある「男の子、集いて」も、最近は女性が何十人か学んでいて随分様変わりをしてきたが、学校に確認すると校歌はそのまま使われていた。卒業生として安堵する。
  「白い花の咲く頃」と校歌はなんの関係もないが、元歌手を呼んだのも、校歌の制作を依頼したのも今は亡き恩師であると思えば、私にとっては同じように忘れられない歌である。
  六十の手習いで、ピアノを習いだしたのもこの「白い花の咲く頃」を弾きたいがためであるといっても間違いはない。
  「作詞寺尾智沙、作曲田村しげる」この両氏が夫婦であることも、高校生の私には憧れであった。
聞き覚えで、カラオケでは得意そうに歌っていたが、楽譜を前に3連音符、半音下がり、タッカのリズム。
  正式に教えられるとまことにはずかしい思いがする。それでもなんとか弾き歌いの可能性が出てきたが、そこでまた新たな難問が----。
  カラオケのスピーカーを通した豊かな音量に比べて頭の骨から響いてくるわが肉声のなんと頼りないこと。これをどう克服するか。
  「白い花の咲く頃」からはじまってカラオケのレパートリーを増やせたようにピアノもそうあって欲しいと期待している。
  それにしても音楽のなんの基礎知識をもたない私に、気長にやさしく教えてくれるピアノの先生には感謝の念しきりである。
 
第152号 ウォーキング
2002-01-01
  平成十四年、初日に輝く陸上競技場。
  そのトラックの一番外側のコースをさっそうと歩いているのは、身長百七十九センチ、体重が八十キロ になっているであろう私である。
  三年ほど前の定期検診で突然血圧が高いことを告げられる。中性脂肪も許容範囲を越え血糖値も危険域に入っている。
  タバコは元々興味がなく、アルコールはお付き合い程度、食事は好き嫌いなく頂く。ストレスはため ず、こんな私が病気になるのなら世の中すべての人が病気になるだろうと健康には自信満々であったが、 そのうぬぼれが災いしたのか。肥え過ぎて体重が九十キロを越えてしまった。
  身長百七十六センチ。体重六十七キロ。これが高校三年間を通して変わらなかった。中学生でバレーボ ールに励んだお陰で伸びきってしまったのだろう。
  わが体型は決して肥えることはないと確信していたのだが、飽食の時代になって素直にそれを享受し てしまったようだ。
  まず体重を減らしなさいと検診の後で栄養士さんの指導を受ける。ハイハイと素直に聞いてはいたのだが、食事になると、いつどこででも出されたものはこれまた素直に頂いてしまう。人として一番大切な事に思える素直さも時に災いをする。減量と言う意識は常にあっても、いざなにをどう実行するかとなるとぼやけてしまう。
  昨年、還暦の記念にと同級生五人で富士登山をした。前年から十キロは減らしておこうと休日には二、 三時間のウォーキングもやっていたのだが、その効果は全く表れず、九十キロを山頂に運ぶには相当な 苦闘であった。
  高血圧と言われてから三度目の検診でついに血圧降下剤の投与を言い渡される。これにはさすがにショ ックを受ける。
  意を決して、毎日一時間のウォーキングを義務づけた。太陽が夏の日差しになりかけたころである。 夕方、帰宅してすぐに歩き始める。
  当初は国道の歩道を歩いていたが、段差や信号、排気ガスもあって歩きにくい。それに犬を散歩させているのに合うとなんとも気持ち悪い。飼い主は犬と一緒で楽しんでいるのだろうが傍迷惑この上ない。
  ふと気が付くと、わが家から歩いて数分のところに町の立派な運動公園があったのだ。
  体育館、テニスコート、陸上競技場と町民のために夜間照明も完備されて大勢のひとが利用している。
  どんな人たちがいるのか、最初はその中に入りづらいように思えたが、それぞれがマイペースで歩いている姿を見て安堵する。大勢いても干渉されるような目を感じないのがなによりもいい。
  夏の盛りにも汗びっしょりかいて、休むことなく毎日一時間、歩き続けて半年あまり。なんと七キロの減量に成功。今年中に十キロの減量は間違いないだろう。
 
  「古い背広一万円で下取り」のコマーシャルが流れた時に、体に合わなくなったのをよほど出そうかと思ったが、当時としては奮発して買った背広。手放すのは忍びなくタンスの奥にしまったままになっていた。もしかしてと一着一着着てみる。なんとすでに数着はぴったりと合うではないか。後の数着も この調子でいくと着られる可能性が出てきた。
  この年になって、はじめて努力して目標を達成した充実感を味わっている。
 
第151号 チェジュド
2001-10-01
  出発便ボードをいくら眺めても済州国際空港行きの標示が見当たらない。
  関西国際空港発が予定より一時間遅れて九時三十分になったのだが、その時間に出発する便はない。 早朝の出発だからと空港近くで前泊して朝食もとらずに集合場所に行くと、航空合杜の都合で出発が予定より一時間遅れを告げらける。それならホテルでゆっくり朝食が出来たのになんとも歯がゆい添乗員である。
  メーカーの招待旅行であるから大きな声で文句は言えないが、弊社のお客様招待時には、こんな不手際は許されないと改めて自らを戒める。
  恥ずかしいことではあるが、済州島がチェジュドということはその時まで知らなかった。
  先にもらった冊子にも済州国際空港と書いてある。後に、見どころ案内をよく見ると済州島の文字の上にごく小さくチェジュドと記してある。
  改めて出発ボードを見ると九時三十分発チェジュインターナショナルエアポートと出ている。
  済州島は日本から手軽に行ける旅行地らしいことは聞いていたが、旅行好きを自称する私でも行きたいと思ったことはなかった。せいぜいゴルフか、男の遊び場くらいのイメージしかもっていなかった。 確かにホテルには日本からのツアー客のゴルフバッグがあちこちに積み上げてあった。
  夜の遊びは、以前のような華やかなキーセンパーティは影を潜めている。 どうしても暗い汚いイメージが離れなかったが行ってみると、それはまことに失礼な勝手な思い込みであった。
 
  「常夏とはいえないが韓国のハワイ」 ガイドさんの説明通り素直にそう感じられた。
  島の中央にあるカンナ山(一九五○m)が噴火をして出来た火山島。産業はほとんどなく、経済は観光で成り立っている。そこにも日本人が大半かと思ったが、八○%以上は韓国本土からの観光客だそうだ。
  姿も言葉も日本人とまったく変わらないガイドさんが案内をしてくれたが、あまりに流暢な日本語に、 何年か日本に留学していたのか尋ねると、大学で習っただけと答えてくれた。 さらに驚きは、現在、山岡荘八の徳川家康に挑戦している。
  「今、石田三成が死んだところ、大変おもしろくてついつい寝不足になってしまう」 いかにも楽しそうに話してくれる。
 
  済州島は昔、政治犯の流罪の地であって、流されて来たその人たちは、いつの日か復活を夢見て働かずに 勉強ばかりしていた。その名残りがあって、この島の男性はあまり働かないのだそうだ。
  「男性の皆様、来世は是非この済州島に生まれてきてください」 そのガイドさんの主人も職種は聞けなかったが月に十日ほどしか働かないらしい。
  火山島の独特な岩、洞窟、神話伝説をはぐくんだ豊かな歴史の島、明るく奇麗な島であった。
  帰路、ソウルの繁華街近くのホテルに一泊したが、日本の大都会と異なるのはハングル文字だけ。
  過去の侵略戦争、教科書を巡ってぎくしゃくした日韓関係が報道されているが、どこにもそんな雰囲気は なく、隣国の楽しい交流を感じた旅であった。
 
第150号 ピアノ
2001-07-01
  「六十の手習い」とは。たとえ三十歳からはじめても今ごろになって気恥ずかしいと、謙虚な気持ちをこめて言うときに使うらしい。
  本人には六十歳の自覚はまったくないのだが、謙虚ではなく正真正銘の六十の手習いになった。
  気恥ずかしいからボケ防止とは言ってみたもののこれも正真正銘老化防止ということは素直に認めざるを得ない。
  老化防止に最も効果があるのは指を動かすことだそうで、ピアニストは総じて長生きしているらしい。 
  三十年前に大阪から帰郷。新築と同時にあこがれのピアノを買った。ここで本格的に習っていれば謙虚な六十の手習いになっていたのだが、持ち前の引っ込み思案が災いして、独学でやろうとしたのがそもそもの間違い。
  楽譜やら教本をいくら買ってきても練習をしないと弾けるようにはならない。いつの間か三十年が過ぎてしまった。それでもその間に幾度となく鍵盤の前に座ったのだが、自己流では指の運びがままならず、今思うと全くの徒労であった。
  昨年の夏の終わりごろに、お得意先の姪御(めいご)さんのピアノのレッスン場にあるエアコンを取替えたのが縁で、長年の念願であったレッスンを受けることになった。
  先生は芸大を卒業されて子供たちを教えておられたが、父親みたいな人から教えてくれと言われたのだから多分驚かれただろうと思う。それでも日にちを調整してくれてレッスンがはじまる。
  大人には、バイエルなどの基礎練習はせずに、この一曲が弾ければよいといきなり曲を練習するやりかたをテレビで見たことがあったが、その方法でお願いする。
  いまさらバッハやベートーベンを弾きこなそうなどとは思わないし、その可能性もないだろう。せめてカラオケで歌う曲が自分のピアノ伴奏で歌えれば楽しいではないか。そのつもりで半年あまり頑張っているが、その成果のほどは、さて?
 
  幸い気さくな先生で、この歳になってもあがり性には変化なく、自宅で練習しているときはなんなく動いていた指が先生の前だとこわばって動かない。
  「パニクってますね」と笑っている。
  「あがってますから」と答えられるのは馬齢を重ねた厚かましさか。
  わが家の娘も息子も幼児期に習わせたが、二人とも基礎が出来るまでには至らなかった。決して先生のせいにするつもりはないが、もしかするとこの先生であったら続いていたのではないかと思う。一般的には音楽の専門の先生は個性の強い人のようで、大らかに子供を包み込んで指導ができる人は、私の偏見かもしれないが、少ないように思う。
  部屋の片隅でほこりを被ったピアノを置いてある家庭は多い。指導者が私の先生のような人ばかりであればピアノを楽しむ人はもっと増えるのではないかと惜しい気がしてならない。
  六十年間、精一杯生きてきたと言えば聞こえはよいが、自らの努力でつかんだというものはどうみても見当たらない。せめて青春時代に夢見たシンガーソングライターの、そのかけらでも、自分の中に感じられるようになったら幸せであろう。豊かな老後を過ごすためにも。 
 

第191号  灰になるために生まれてきたんじゃない

第191号  灰になるために生まれてきたんじゃない
 
灰になるために生まれてきたんじゃない

出来たばかりのコンクリート舗装の路上に白い大きな犬の死体が横たわっていた。

開通間もない国道十一号。現在は県道三十三号になっているが、私が高校に通っている三年間に工事が進められて、出来上がった真新しい路面に無残な姿があった。最近では路上に死んでいる犬猫を見るのは珍しくもなくなったが、半世紀も前の光景が強烈に脳裏に残っている。今も通勤時に通る道である。

悲惨な交通事故死は人間も同様で悲しむべきことであるが、その犬猫の命が不慮の死ではなく、まるで売れ残ったコンビニの弁当のように処分されていると聞くと人間のおぞましさに恐怖感を覚える。

それは連日報道される幼児虐待、いじめ、陰惨な殺人事件等殺伐とした世相に現れているようにも思える。

知人が「小さな命の写真展」として、保険所等で殺処分される前の犬猫の表情を写した写真展を常盤街商店街、ホームセンター、駅構内、市役所等々で開催している。

この命、灰になるために生まれてきたんじゃない。全国で一日に約一千頭の犬猫が二酸化炭素に依って殺処分されている。香川県は人口当たりの殺処分数は全国ワースト五位だそうだ。その費用は全国で二十四億円と聞くこれ全て税金で賄われている。

人の癒しの為に、命の尊さを共有する筈のペットが心ない一部の人と思いたいが、無責任に捨てられ殺される。

写真展の会場で売られていた児童書のノンフィクション作家、今西乃子著「犬たちを送る日」の冒頭の部分を要約して紹介したい。

一九七八年、野犬の撲滅対策として、ある県での犬の買い上げ制度を設けたときのことである。

犬を保険所に持ち込んだ県民には一頭五百円の報酬を出す。

そこに小学生三人が七匹の子犬を持ち込んだ。

「すみません、これ買うてくれるんですか?」

「これ?どうしたいん?」

「犬、一匹ここに持ってくれば、五百円くれるって聞いたけん。七匹で三千五百円やけんね。お金くれん?」

当時の三千五百円といえば、かなりの高額である。

「そのお金、何につかうんや?」

「プラモデルじゃけん!欲しいプラモデルがあるで、それ買いたいんや!はようお金ください」

「君らが連れてきた子犬、ここに来てどうなるか知っとるか?」

「・・・?」

「あのな、ここに連れてこられた犬は、みんなあと数日で殺されてしまうんや。この子犬もそうじゃけん。みんな殺されてしまうんやで。それでもええんか?」

「かまわんけん!はようお金ください!はよう行かんと、プラモデルやさん、閉まってしまうけん」

 親が教えたのだ。

「そんなに小遣いがほしかったら、野良犬の子犬を見つけて保険所へ持って行け」と。 

 命を金に換え、そのお金で自分たちの欲しいものを手に入れようとする少年達、それを容認する大人達がたまらなく悲しく思えた。

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