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第149号 追悼
2001-04-01
(株)洋電社 故三原会長を偲ぶ
                               
  大阪で二十五歳からお世話になった会社の社長様が亡くなられた。享年八十九歳。
  当然社長業は息子様に譲られて現在は会長になられていたが、ここ数年は入退院をくり返されていた。
  それでも、ごく最近まで現社長にいろいろと仕事の助言はされていたと聞く。
  戦後間もなく電設資材の卸業を始められ、その業界をひとすじに歩まれ、全国組織の組合結成にも尽力されて、勲五等端宝章も受けられている。千里会館で行われた社葬での著名な方々の弔辞には共通して、人情豊かな、頼りがいのある人であったと惜しまれていた。
  しかし、在職十年の間で社長と親しく話をした記憶は全く無い。私には遠く雲の上の人に思えていたから、こちらから相談に行くなどとは恐れ多くてとても出来ることではなかった。それでも月に一度の全体会議では私が一番熱心に社長の話を聞いていた社員の一人であったことは確かであると思っている。
 
  何を話されたか、記憶にはほとんどないがその一言一言が私の体のどこかに吸収されているのは間違いない。
  「他人はわしのことを腹黒いと言う。それで結構、この年になって腹黒くなかったら馬鹿だ」
  「わしの子供が、お父さんは黒いものでも白と私たちを言いくるめてしまうと言われることがあるが、わしは黒いものを白と言っているのではない。もとから白いと思うから白と言っている」
  「嘘は泥棒のはじまり。しかし、商売人には許される嘘がある。それは駆け引きだ」
  「失礼だがこの中に一流大学を出た秀才はいるか。いないね。ならば一流企業に入っているそいつらに仕事で挑戦しようではないか」
  人生は「運・鈍・根」であると最初に教えてくれた人でもある。
  辞して二十五年。思えば我が齢(よわい)すでに当時の社長の年に達して余りある。なんと未熟なことか。まことに情けない限りだが、比べること自体が大きな間違いであろう。
  同じ業界に身を置いて、商売の駆け引きもままならず、自らの腹黒さを認めるには大いに抵抗がある。商売人としてはどうやら失格の部類に入りそうである。
  仕事が出来る出来ないは学歴には全く関係はないようだ。仕事に必要な知識、資格等の高度な知識を習得しても、それを生かせる知恵がなければなんの役にも立たない。
  弊社でも仕事が不得手でやむを得ず何人かに辞めてもらったが、結果的にはそのほとんどが大学卒であった。
  中には超一流大学の卒業者もいる。そんなところを出て、こんな零細企業に身を置いているのだから、はじめからそれなりの人であったのだろうとは理解できるが、最近の政財界、高級官僚の不祥事を見聞きするにつけ、もしかすると記憶力だけずば抜けていて、試験は抜群の成績であっても、世情にはまことに疎い同じような人物が、日本の中枢にもいるのかも知れないと考えると背筋が寒くなる思いがする。
  弊社の年頭社員研修会では、この「秀才に挑戦しよう」を力説させてもらった。
  「回復の兆しさえみえない不況の中、知恵を出しお客様に誠実さを認めてもらわなければ企業として生き残れない」
  社員を前に話をしている私の脳裏に、亡くなられた社長様の言葉が次々に浮かんでいた。
 
第148号 日の出
2001-01-01
  二十一世紀の初日の出はどんな姿を見せてくれるのだろうか。
  そう言えば、これまで初日の出を拝んだ記憶はほとんどない。除夜の鐘とともに初もうでに出かけて明け方近くになって就寝。目覚めると太陽は高く上がっている。これを毎年くり返してきた。
  それでも思わず見事な初日に手を合わせた記憶が一度だけある。息子が小学生の時にPTAの会長をしていて、新年の挨拶の話題作りにと、無理をして起きたのだ。それから何度かは家の近くの陸橋に立って日の出を待ったが、なぜか新年の空には雲が覆っていた。
  初日の出ではないが、西暦二千年、還暦の記念にと同級生五人で、この夏に富士登山をして来た。
  五合目を夕方出発して九時間かかって頂上に午前一時過ぎにやっとたどり着く。
  氷点下ニ、三度の山頂で夜露に打たれながら、下から吹き上げてくる風に当たると顔が凍る冷たさ。それでも身をかがめて御来光をカメラに収めようと一番前に陣取って三時間余りの日の出を待った。
  やっと辺りが白みはじめるころになると山頂には人があふれ、目を下に移すと登山道には切れ目のない帯のように続く頂上を目指す人の列。
  東の空が赤く染まってきた。いよいよ御来光か。凍える手でカメラを構えるが、赤から見事な黄金に変わった物体。太陽にしては大きく宝船を思わす形である。何度かシャッターを押すが、ついに丸く輝くことはなかった。
  御来光は雲をレンズにして精一杯輝いていたと寒さに耐えた三時間を慰める。
  二千年が丁度「還暦」になると気がついたのは子供のころ、ずっとずっと先のあまりにも遠過ぎて、その老いた姿など想像も出来なかったことを覚えているが、こんなにも早く現実のものになろうとは驚嘆そのものである。
  戦中に生を受け、戦後の貧しさの中に育ってふと、気がつくと今は飽食の時代。日本は世界が注目する豊かさを享受している。そして心も豊かになったと言わなければならないのにどこでどう間違えたのだろう。

  「衣食足りて礼節を知る」の言葉が死語になりかかっている。
  「金」の豊かさだけを追い求めてきたのか。
  十九世紀末にはヨーロッパで退廃的な思潮傾向から、社会の没落滅亡を意味する「世紀末」という言葉が生まれたのだそうが、二十世紀末は正しく日本の世紀末になったようだ。
  長引く不況に中で、大企業の相次ぐ倒産、凶悪な犯罪の増加、世界に誇る繁栄の基を成していた教育の場にも、登校拒否、学級崩壊というような言葉が生まれた。
  この延長線上に見えてくるのは紛れもなく滅亡である。
  物の豊かさに慢心してしまったのか。政治の世界にも、倒産した企業の社長にも、荒れた学校の校長にも、犯罪を犯した子供の親にも、自らの責任を真に感じている姿はみられない。それを多様な世の中になったためと弁護する無責任極まりない評論家たち。
  それぞれの立場においてその外的多様な原因があったとしても、なおすべての責任を負える人が、政治家であり、社長、校長、子の親でなければならない。
  日本の世紀末を払しょくする力強い、輝く二十一世紀の日の出を待望する。
 
第147号 原卓二さんのこと
2000-10-01
  還暦の記念に随筆集「付かず離れず」を出版された。今までに「遍路宿」に掲載された作品の中から年齢に合わせて六十本を選ばれて1冊の本にまとめられた。
  原さんの作品は毎号読ませてもらっていたが、その本を頂き読み返し、また出版記念祝賀パーティーの出席者の多才なメンバーにも、改めてその趣味の豊かさ交友の広さに、感嘆と敬意の念を深くする。
  そんな方と親しくお付き合いをさせて頂いていることに、喜びと誇りを感じながらも、恐縮に思うことしきりである。
  原さんと初めてお会いしたのは、平成5年の秋、私が例会の司会を一度だけさせてもらった時だったと記憶している。(その後例会には雑事に追われて失礼しています)
  小休止の時間、トイレで並んで用をたしながら「前立腺肥大で出が悪い」と誰かと話されていたのが印象に残っている。前立腺肥大はその誰かだったかも知れないが。
  この人が「キジバトのヒナ」で「遍路宿賞」をもらった人だ。年齢も私よりずっと上のように思えたし、大先輩の貫禄に圧倒された。
  それから2ヵ月後。私に予期せぬ運命が待っていた。社長の急逝である。そこで我が器も顧みずその跡を引き受けてしまった。初めての決算。株主総会と慣れぬ仕事に追われてふと気が付くと今日は「遍路宿」の原稿の締切り日。入会以来続けてきた毎回投稿もついにここで途切れることになった。
  あきらめるより仕方なかったが、ここで途切れたら、後は緊張感がなくなって書かなくなるのは自分自身でよく分かっていた。
  その時の編集チーフが原さんであった。恐る恐る電話をしてみた。
 
  「こんな事情で一日遅れるけれども今夜書いて明日必ず持参しますからなんとか受付して頂けませんか」
  
  「私の一存ではなんともなりませんが、取りあえず持ってきてみてください。もし載せられなかってもごめんよ」
 
  原稿の締切り日の厳守は崩してはならないことだが、すでに時効としてお許しを願いたいが、原さんの温情で載せて下さった。お陰で今も皆勤が続いている。あの時に冷たく拒否されていたら、会員の名簿から私の名前は消えて、多分母の坂東まさ子に代わっていたと思う。そして、なによりも原卓二さんとのお付き合いもなかった。
  原稿をお宅に持参して、応接間で世間話をさせて頂くうちに、お互いに携わる業界は違っていてもどこか共通するところが感じられ、同じ辰年(同級ではありません)であることも分かった。
 
  「一度食事でもご一緒しませんか」
  これが高松の優雅な夜を楽しませてもらう始まりであった。日本料理を頂きながら、原さんの三味線で芸妓さんに踊ってもらう。「遍路宿」の季刊のように、季節の移る度に。
 
  「失敗は誰にもある。しかし、失敗を失敗のまま終わらせるな。失敗したことによってかえって信頼を得られることがある」
 
  これは社員に対しての私の口癖。
  私の失敗は原さんの人柄に救われた。優雅な夜を過ごすメンバーも2人から良き友が加わって4人になり、益々充実した交流になっている。
  喜寿に、もう一冊出される予定だそうだが、ご健勝をお祈りするとともに、大先輩としていつまでもご指導をお願いしたい。
 
第146号 花の縁
2000-07-01
  初めて社員二十余名全員集まって我が家で花見の宴を催す。
  何年も前から考えてはいたのだが、何分にも花の日にちが限られているから実行に移せずにいた。今年はなんとか諸行事をやりくりして実現する。やや遅れ気味ではあったが、花の雰囲気は味わってもらえたと思う。
  二十年前、息子が小学校入学記念に、一メートルほどの桜の木を植えた。品種はソメイヨシノ。
  場所は当時の玄関の正面である。木の下には芝を張ってここで花見が出来たら楽しいだろうと、なんとなく夢みたいに思っていたが、木の成長は速い。今では根元の幹回りは一メートル半にもなり、高さも二階の屋根よりも高くなって家を見下ろす大木になった。
  庭に桜の花が咲いたらきれいだろうと、ただそれだけの幼い思いで植えたのだが、屋敷に桜がある家はあまり見かけない。聞くところによると、ぱっと散ってしまうから縁起が良くないのだそうだ。なるほど…。
  それでも良いではないか。一瞬でもあれだけ輝ける時がもてれば悔いはない。それに縁起が悪いと感じた人に忘れていることがある。それは毎年必ずその季節に花が咲くということである。一生に一度きりしか咲かないのではない。それに季節に応じたその対応の仕方は人に生き方を教えているようでさえある。
  春の陽光を感じると一気に花を咲かせ、暑い日差しを若葉に受けて目いっぱいに成長する。日差しが弱くなると葉を落として寒さに備える。季節の変化を敏感にとらえた処し方は見事ではないか。
  我が家の桜もその豊かな葉っぱで夏の炎天下、強烈な西日も遮ってくれている。ただ桜の下にある日光を好む芝生にはいささか迷惑のようで、桜の成長とともに発育不全気味になってきた。
  二十年の歳月にふさわしい成長をしてきた桜を見上げる度に、うらやましく感じるのは我が心の成長のなさの嘆きだろうか。
  玄関脇で言わば表に位置した場所にあったのが、一昨年から玄関が東に移動してこの桜の木が裏庭の存在になった。しかし、花は変わりなく咲いている。当たり前のことだが、その変貌をどんなに感じているのか、聞いてみたい気もする。
  ぱっと散る花にもう一つ、性懲りもなく今度はぶら下がりの花が加わりそうだ。
  数年前に退職した家内が今はやりのガーデニングに凝っている。以前は母が季節の野菜を植えていた数十坪の畑を花畑に変えて楽しんでいる。その片隅になんと藤棚を作ると言い出した。
  太い台木に接ぎ木をしてすでに花が二、三房ついているのを植木屋に植えてもらった。そこから棚を作るのは私の仕事。
  ゴールデンウィークの格好の時間潰しで、息子にも手伝わせて鉄の角パイプで四畳半ほどの頑丈な棚が出来上がる。何年かすれば、藤棚の下でお茶会でもする気らしい。
  そのころにはなんとか世間様にぶら下がって辛うじて人生を送っているのだろうか。
  我が家で花見が出来て、藤棚の下でお茶を頂いて。
  ささやかな幸せとはこんなことを言うのだろう。
  社員の花見も毎年の年中行事として、親睦が図られお互いに心が通い合えば必ず会社にも立派な花が咲くだろう。
 
第145号 写真
2000-04-01
  楽しそうな親子のスナップ写真。そのバックに「カトリック さゆりようちえん」の垂れ幕が写っている。この一枚の写真のお陰で七五三の貴重な記念写真が無事にその親子さんにかえっていった。

  「ほんものの京都」と銘打って、松下電器産業(株)の代理店の親睦会で、普段見られない京都を鑑賞しようと、東寺から銀閣寺、平安神宮もすべて建物の中から庭の奥まで説明を受けながら見学して、しにせの精進料理、豆乳を沸かしながら湯葉の出来るのを待ちかねてすくいあげて頂く湯葉懐石、夜には舞妓さんに 芸者さんも呼んで華やかな宴会を楽しむ贅沢な旅行があった。その時にいささかぼけていたのか、帰ってフィルムを現像すると、平安神宮で時代蔡に使われる総 額六十余億円にもなる豪華な衣装の一部、時価三千万円の鎧、八百万円の十二単衣を写したネガがない。
  尚美館(貴賓館)でフィルムを入れ替えた時に撮り終えたフィルムをポケットに入れるのを忘れたらしい。
  あわてて、平安神宮に電話をする。「社務所に撮り終えたフィルムが一本届いております」
  それだ!
  しかし、紛失した日にちと社務所に届けられた日が一日ずれているし、メーカーも枚数もいつも使っているのとは全く違う。
  それでもなんとかそれであってほしいと無理に自分に言い聞かせて、とにかく送ってもらうようにお願いする。
  冷静に考えれば、尚美館で撮り終えてカメラから出したフィルムには、尚美館へ行くまでの見事な紅葉の庭も写っていて無くしてはいなかったのだ。なのになぜシャッターを切ったはずの写真がないのか。
  私はどんな旅行にでも自前のカメラは必ず持って行く。カメラが趣味とは言い難いが、記念と日記代わりにアルバムできちんと整理をしている。
  今回は松下電器様が気を利かせて、インスタントカメラを全員に配ってくれていた。そこで自分のフィルムが終わったものだから、その渡されていたカメラで撮っていたのだ。後日、焼き増しして届けてくれた写真の中にばっちりと写っている。
  平安神宮から送られてきたフィルムはすでに他人様のものとは分かっていた。そのまま送り返すべきかどうか迷いはしたが、出来れば写っている人に直接送ってあげた方が良いのではないかと現像に出してみる。
  平安神宮での七五三のお参りの姿が写っている。幸せな家族の様子が伝わってくる。
  これはどうしてもこの人に送ってあげなければいけない。なにか手がかりはないかとよく見ていると、ネガの最初の一枚に「さゆりようちえん」と読めるのがあった。これは近畿圏の幼稚園に違いないと電話局でその名前を調べてもらうと簡単に所在地がわかった。
  幼稚園に電話を入れると最初はけげんそうに用心深く応対していた事務員さんも、事情が分かってくると親切にファックス番号も教えてくれる。写真の何枚かをファックスに入れる。その主はやはりそこの園児であった。
 
  「神宮内を大分捜したのですが 、見つからずあきらめていましたのに」
 
  珍しいお菓子を添えて礼状が届く。
  あの時の、私の錯覚と思い込みが一本のフィルムを救ったようで、ほっとした喜びがあった。その写真の一枚をプリントした年賀状が届いた。
 

第191号  灰になるために生まれてきたんじゃない

第191号  灰になるために生まれてきたんじゃない
 
灰になるために生まれてきたんじゃない

出来たばかりのコンクリート舗装の路上に白い大きな犬の死体が横たわっていた。

開通間もない国道十一号。現在は県道三十三号になっているが、私が高校に通っている三年間に工事が進められて、出来上がった真新しい路面に無残な姿があった。最近では路上に死んでいる犬猫を見るのは珍しくもなくなったが、半世紀も前の光景が強烈に脳裏に残っている。今も通勤時に通る道である。

悲惨な交通事故死は人間も同様で悲しむべきことであるが、その犬猫の命が不慮の死ではなく、まるで売れ残ったコンビニの弁当のように処分されていると聞くと人間のおぞましさに恐怖感を覚える。

それは連日報道される幼児虐待、いじめ、陰惨な殺人事件等殺伐とした世相に現れているようにも思える。

知人が「小さな命の写真展」として、保険所等で殺処分される前の犬猫の表情を写した写真展を常盤街商店街、ホームセンター、駅構内、市役所等々で開催している。

この命、灰になるために生まれてきたんじゃない。全国で一日に約一千頭の犬猫が二酸化炭素に依って殺処分されている。香川県は人口当たりの殺処分数は全国ワースト五位だそうだ。その費用は全国で二十四億円と聞くこれ全て税金で賄われている。

人の癒しの為に、命の尊さを共有する筈のペットが心ない一部の人と思いたいが、無責任に捨てられ殺される。

写真展の会場で売られていた児童書のノンフィクション作家、今西乃子著「犬たちを送る日」の冒頭の部分を要約して紹介したい。

一九七八年、野犬の撲滅対策として、ある県での犬の買い上げ制度を設けたときのことである。

犬を保険所に持ち込んだ県民には一頭五百円の報酬を出す。

そこに小学生三人が七匹の子犬を持ち込んだ。

「すみません、これ買うてくれるんですか?」

「これ?どうしたいん?」

「犬、一匹ここに持ってくれば、五百円くれるって聞いたけん。七匹で三千五百円やけんね。お金くれん?」

当時の三千五百円といえば、かなりの高額である。

「そのお金、何につかうんや?」

「プラモデルじゃけん!欲しいプラモデルがあるで、それ買いたいんや!はようお金ください」

「君らが連れてきた子犬、ここに来てどうなるか知っとるか?」

「・・・?」

「あのな、ここに連れてこられた犬は、みんなあと数日で殺されてしまうんや。この子犬もそうじゃけん。みんな殺されてしまうんやで。それでもええんか?」

「かまわんけん!はようお金ください!はよう行かんと、プラモデルやさん、閉まってしまうけん」

 親が教えたのだ。

「そんなに小遣いがほしかったら、野良犬の子犬を見つけて保険所へ持って行け」と。 

 命を金に換え、そのお金で自分たちの欲しいものを手に入れようとする少年達、それを容認する大人達がたまらなく悲しく思えた。

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