エスエヌデー株式会社|電設資材|照明器具|空調機器|住宅設備機器|家電製品|情報機器販売|香川県坂出市

 
 
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  物事を受け止める心
2019-03-04
物事を受け止める心 
        
                                坂 東 重 明
「坂東さん、道端に野花が可憐に咲いていますね。そこに通りかかった人は、立ち止まって眺めていく人、その花を摘んで持ち帰る人、あるいは足で蹴飛ばしていく人もあるかも知れない、まったく気付かず通り過ぎる人もいるでしょう。そこに咲いている花になんの変りもないのだけれど、その花を見て感じる心は人それぞれに違いますね。その感じる心に相応しい人生が待っているのですよ」
 二十歳代も後半になっていたと思う。営業で訪問していたお得意先の社長様が、何気なく言われた言葉だが、私の胸に強烈に響いた。
 担当のお得意様には誠心誠意で接してきたつもりであったが、お得意先の中にはその思いがまったく通じないお客さんもあった。「坂東は生き馬の目を抜く大阪の商売人」さらに香川県出身と分かると「さぬき(讃岐)の狸」と揶揄される。元来、田舎育ちで駆け引きは出来ない。利鞘を稼ぐ商売人と言う言葉も大嫌い。それなのに、なぜ「がめつい商売人」と受け取られるのか。
 やはり営業には向いていないのだろう。そんな悶々とした日々を送っていたときであった。
 そうか、同じ坂東を見ても人それぞれに感じ方は違うのだ。坂東は真面目な奴、と感じてくれる人はその人が真面目なのだ。生き馬の目を抜く商売人に見える人はその人が商売人なのだ。
 それに気付くと急に肩の力が抜けたのが分かった。それからは、さぬきの狸と言われようと、なんの抵抗感もなくなった。するとどんな人とも等しく接せられるのが不思議である。営業の楽しさを知った。
 そして受け止める心の大事さ、日常の諸事を受け止める心の積み重ねがその人の人生であること。不幸な人生を歩んでいる人は間違いなく物事を不幸に受け止めている。可憐な野花を蹴飛ばしていく人に幸せは来ないだろう。
 どこかで人間革命という言葉をよく耳にするが、この「物事を受け止める心のあり方」に気付いたことは、私自身の三十路に向けての人間革命であった。
 
       2010年11月25日  株式会社PHP研修所 発行
    トップリーダーが綴る 元気をもらった一言 より
 
第219号  木下忠司氏を偲ぶ 平成30年10月1日発行
2019-03-04
 木下忠司氏が今年四月三十日に亡くなられた。享年百二才。
 弊社の社員を初め何人かに、その名を知っているか聞いてみるが、誰も知らない。                                            因みに「木下恵介」は、と聞くと、年配の社員一人だけ「映画監督ですか」と答えてくれた。
 時代の流れなのか、それとも私の周辺には映画、文学には無関心の人ばかりなのか。かく言う私もその類であることは間違    いないが。
 木下恵介氏は「二十四の瞳」が有名な映画監督。木下順二氏は「夕鶴」の純文学者。木下忠司氏は作曲家。これが秀才の木下三兄弟と教えられていたが、もう一人脚本家の楠田芳子氏も兄妹であった。
 木下忠司氏は我が母校、坂出工業高校の校歌の作者である。なぜ高名な作曲家が田舎の高校の校歌を作られたのか、疑問に思っていたが、その経緯を、宇多津のホテルで開催された創立七十周年記念同窓会(二〇〇七年十月二十七日)に来賓として来られていたご本人から直接伺った。
 「ある日、突然谷口君がやって来て、隊長我が校の校歌を作って下さい」
 谷口君とは、電気課の教師で我が恩師でもある。戦争中、木下隊長の部下であった。                                  学校創立(一九三八年)以来校歌の無かった我が高校に、戦後教師になられた谷口氏が、校歌制作に一役買って出られた。
 要望を受けて木下忠司氏は坂出に数日間滞在されて構想を練った。
  ♪讃岐なる富士を背にして
   内海の瀬戸にのぞみぬ
   真白なる塩のめぐみと
   真実(まこと)なる人の心に育まれ
   若人は技をみがきぬ
   こころみがきぬ
 二番、三番にも坂出工業高校と言う言葉は出てこないが、詞も曲も抒情的で素晴らしい校歌だと思っている。 
 究極のマンネリ番組と言われながら、今尚人気の「水戸黄門」は、平日毎日のように再放送されているが、タイトルの直      後に「音楽木下忠司」と出てくるのも嬉しい。記念同窓会でお会いした時はすでに引退されて八ヶ岳で静かに暮らしておられたが、
「水戸黄門の音楽は、スタッフが上手く使ってくれている」と仰っていた。その八ヶ岳に「一度伺います」と約束をしたのだが、叶わず歳月が流れた。
 八ヶ岳にはタレントの柳生博氏経営の「八ヶ岳クラブ」があって、当時、家内が友人と毎年のように訪れていて聞きなれた所でもあった。
 木下恵介監督の大ヒット作「喜びも悲しみも幾歳月」の音楽も、もちろん弟の忠司氏。
  ♪俺(おい)ら岬の灯台守は
   妻と二人で沖行く船の
   無事を祈って灯をかざす
   灯をかざす
 勇壮な伴奏にのって歌手若山彰氏の声量豊かな歌声が耳に残っている。
 高校まで我が家から自転車で一時間余り。夏の酷暑の中、凍える冬の道を通ったが、歌好きの同級生がペダルをこぎなが ら、声を張り上げて 
 「♪おいら岬の・・・」と歌っていたのがもう六十年も前の事とは。
 
 第218号 腰 痛   平成30年7月1日発行 
2018-09-06
 腰痛を初めて体験したのは、息子が小学生四、五年の頃であったと思う。
 夕食後、息子と小学校まで五百メートル程を走って行ってグランドの二百メートルのトラックを五周して帰って来る。それを二、三か月続けたところで、立っていられない激痛に襲われた。しかし、その原因がまさかジョギングであるとは気づかず続けていた。益々痛みが増してきた時にふと、誰からだったか「走ったりはしてないね」と聞かれて「いや小学生に負けられないと頑張って走っています」と答えたら「腰の痛みはそれですよ!」
 体に良いと信じていたジョギングが背骨を傷めていたのだ。俄かには信じられなかったが、取り敢えずジョギングは止めた。その後、その治療をどうしたかは記憶にない。
 それから三十年余り、体重を減らす為に色々試みたが、全て続かないのはなぜだ。
 ゴルフの練習用にネットを張って打ちっぱなし。これは五十肩と言われて、腕が上がらず、重いものを掴み上げられなくなる。
 室内でペダルを踏むサイクリング車も、消費カロリー目標五百キロに設定してせっせと踏んでいたら、膝がおかしくなってきた。
 通信販売の「ダイエット器具ステッパー」も膝に自信がないと思い切り踏み込めない。
 背骨の屈伸用の器具も試みたが背骨が痛くては使えない。
 辿りついたのが、昔取った杵柄、卓球だ。
 今年中学生になった孫が、小学生の香川県大会では常に優勝していたが、これから全国大会でどれだけ通用するか楽しみにしている爺馬鹿だが、それに刺激された訳でもないが、孫を口実に卓球マシンを買った。
 設定によって左右、上下、回転どんな球でも打ち出してくれる優れもので、それを相手に練習をしているが、まだまだ満足に打ち返せない。それでも失敗しても相手に迷惑になる訳でもないのでマイペースで打てる、フォアーハンド、バックと調子に乗ってやっていたらどうやら又腰に来た。
 昨秋、北欧を旅した時に連日二万歩、三万歩とスマホの歩数計ではあるが、観光地を歩いて、些か腰に違和感があった。それを補正したいと言う思いもあったのだが、又々やり過ぎたか。
 最近立ってズボンがはき辛いと思っていたらついにきた。立ち上がろうとした時に骨盤辺りに激痛が走った。
 整形外科医院を数件回ったが、いずれも同じ診たてである。下の方の脊髄の間隔が少し狭くなっていてそれが神経を刺激しているらしい。それを治すには? 医師の返事がない より正確に診断してもらう為にMRIのある医院を紹介してもらっが、写し出された映像は外科医のレントゲン写真と同じ。
 最終的に頼りになるのは整体師の資格を持つ息子か。背骨を押してもらって、立ち上がると痛みがない。治った! しかし、しばらくして再び立ち上がると痛い! 元に戻っている。それでもそれを繰り返しながら徐々に治っていくことを期待している。
 腰、膝を気にすることなく訓練出来るのが、六十才から習い始めたピアノだ。音楽的な上達は望むべくもないが、指の運動は間違いなくボケ防止になるだろう。「薬指を独立して動かすのは難しいようですね」と先生に笑われながらも。
 
 第217号 ラジオ体操  平成30年4月1日発行
2018-09-06
 弊社では始業前に社員二十名ほどが、輪になってラジオ体操をしているが、どうも気になることがある。年寄りの老婆心かも知れないが、一つひとつの動作の意味を理解していないように見える。曲げる、伸ばす、ねじる等の動作が、中途半端な動きで終わっている「子供のお遊戯ではない」、と余りに目につく時には注意もしているが、これは他人に言われてすることではなくて、個々の健康の為の筈だ。
 体重の減量と運動不足改善の為に、週二回町の体協主催の卓球に通っているが、ここでも初めにラジオ体操をする。常時六十人余り平均年齢七十数才程か。それが、全員テンポよく、ジャンプをしても見事に揃っている。
 平均年齢で三十才以上も若い弊社の社員がなぜ揃って正確に出来ないのか、不思議なのだが、それは健康に対する意識の違いか、あるいは教育の違いもあるのかも知れない。個性が重んじられた結果、何をするにもバラバラ。その正否は別にして、個々を大事にするなら、なおのこと、各自がその動作の効能を理解した動きをしなければいけないし、そうすれば、自然に全員が揃う筈だが。
 ラジオ体操の始まりは、一九二八年。戦前からあったようだが、確か小学生の四、五年生の頃に初めて習ったように思うが、現在のラジオ体操第一は一九五一年から放送が始まったようなので、記憶とは合っている。その翌年に第二体操も開始されたようだが、それは私が小学校を卒業した後に教えられたようで、第二体操は今も知らない。
 現在の第一体操が始まって六十七年。高校卒業と同時に二十年余り、大阪に出て全くラジオ体操とは縁のない生活をしてきたが、両親のこと、子育てのことを考えて帰郷した。そこで待っていたのが、息子が通い始めた保育所の父母の会の会長。全くの寝耳に水であったが、懇願されて仕方なく受けた。
 運動会の日。苦手な挨拶がある。
「私は二十年余り、この地を離れていましたが、帰ってきますと、そこには懐かしい友の顔が、そして共に遊んだこの懐かしい運動場がありました」
 挨拶の後、ラジオ体操が始まった。演台のリーダーは颯爽とした保育士さん。体操をしながら胸に込み上げて来るものがあった。
ラジオ体操との再会である。
 よく雑誌等でお年寄りが元気に体操をしている姿にお目にかかるが、その姿に感動しながら、ふと、気がつくと私と同世代ではないか。若者から見ると我が姿もお年寄りそのものかも知れない。
 今日は、体が軽い、重い、柔らかい、硬いと、わが身の調子を感じながらのラジオ体操は一日の体調の目安でもある。社員たちもいずれ年を取ってくると、自ら真剣に体を動かすように意識も変わってくるのだろう。
 
第216号 リーダー 平成30年1月1日発行
2018-01-10
 JR伊予西条駅の鉄道歴史パークにある「十河信二記念館」を訪ねる。
「十河信二」この人無くして日本の新幹線は出来なかった。
 国鉄総裁に就任したのは御年七十一才。新幹線は老裁の夢物語と、国鉄内でも冷ややかなに見られていた中で、運輸大臣、総理大臣、関係する国会議員達に夜討ち朝駆けしてその必要性を説いた。
 当時の東海道線は英国の植民地向けの、レール幅が狭軌(1067㎝)で、建設費は安く済むが、速度が遅く、輸送量が少ない。いずれ限界が来ることは誰にも分かっていたのだが、国鉄の関係者、有識者のほとんどが、現存する狭軌のまま複複線化する計画案に賛同していた。そして鉄道は、いずれ自動車、航空機に取って代わると考えられていた。
 そんな中で、「世界一の電車を走らせる」と老骨に鞭打って孤軍奮闘したのが、十河信二であった。
狭軌から広軌(レール幅1435㎝)正確には国際標準軌への議論は、以前からあったようだが、議論だけで誰も実行に移す力はなかったのだろう。
 十河総裁の下、実現に向けて計画が検討されたが、技師長の藤井松太郎が「老人の夢物語だ」と取り合わず、そこで技師長を更迭して、新幹線の車両の生みの親になる、島秀雄が技師長に就任する。因みに秀雄の父、安次郎は明治大正時代に「車両の神様」と称えられた鉄道技師であった。欧米先進国に日本の鉄道は、ほぼ五十年遅れてスタートしたが、この親子二代で先進国に追いつき、最先端を駆ける車両を開発した。
 最近、日本のメーカーが英国で日本製の列車を走らせている。日本の誇り、日本技術の面目躍如だが、十河信二と言う人物が存在しなかったら、その技術も発達していなかったし、新幹線も走っていなかった。
 時代の流れ、進歩に合わせてそのうち出来ていたと思われる人もいるかも知れないが、それは間違いだ。
大多数の意見を取り入れて在来線の狭軌で複複線にしていたら、今日の日本の経済発展はなかっただろう。
 近年、日本は失われた二十年、いや三十年と言われてGDP(国内総生産)は中国に抜かれ景気は停滞しているが、これも優れたリーダー不在が原因だ。殊に電機業界は目を覆う現状だが、テレビが韓国に負け、経営が台湾人に委ねられる。今のトップは「いったい何をしているのか」創業者が草葉の陰で嘆いているだろう。
 良き時代は自然に出来るものではない。それぞれの分野で優れたリーダーが作ってきたものだ。
黒部ダムを建設した「太田垣士郎」産業界をリードした「松下幸之助」「盛田昭夫」「井深大」「本田宗一郎」懐かしい名前が浮かぶが、そんな人達が日本を発展させてきた。
 旅行、出張等で良く新幹線は利用するが、平日、休日を問わずどこからこれだけの人が出て来るのかと不思議なほど利用されている。
 もし新幹線が走っていなかったら、想像は出来ないが日本の姿も全く変わったものになっていただろう。
新幹線の生みの親が四国の伊予西条市出身であるにも関わらず、四国だけが取り残されているのはなぜ? それは四国に優れたリーダーが不在であることに他ならない。
 

第191号  灰になるために生まれてきたんじゃない

第191号  灰になるために生まれてきたんじゃない
 
灰になるために生まれてきたんじゃない

出来たばかりのコンクリート舗装の路上に白い大きな犬の死体が横たわっていた。

開通間もない国道十一号。現在は県道三十三号になっているが、私が高校に通っている三年間に工事が進められて、出来上がった真新しい路面に無残な姿があった。最近では路上に死んでいる犬猫を見るのは珍しくもなくなったが、半世紀も前の光景が強烈に脳裏に残っている。今も通勤時に通る道である。

悲惨な交通事故死は人間も同様で悲しむべきことであるが、その犬猫の命が不慮の死ではなく、まるで売れ残ったコンビニの弁当のように処分されていると聞くと人間のおぞましさに恐怖感を覚える。

それは連日報道される幼児虐待、いじめ、陰惨な殺人事件等殺伐とした世相に現れているようにも思える。

知人が「小さな命の写真展」として、保険所等で殺処分される前の犬猫の表情を写した写真展を常盤街商店街、ホームセンター、駅構内、市役所等々で開催している。

この命、灰になるために生まれてきたんじゃない。全国で一日に約一千頭の犬猫が二酸化炭素に依って殺処分されている。香川県は人口当たりの殺処分数は全国ワースト五位だそうだ。その費用は全国で二十四億円と聞くこれ全て税金で賄われている。

人の癒しの為に、命の尊さを共有する筈のペットが心ない一部の人と思いたいが、無責任に捨てられ殺される。

写真展の会場で売られていた児童書のノンフィクション作家、今西乃子著「犬たちを送る日」の冒頭の部分を要約して紹介したい。

一九七八年、野犬の撲滅対策として、ある県での犬の買い上げ制度を設けたときのことである。

犬を保険所に持ち込んだ県民には一頭五百円の報酬を出す。

そこに小学生三人が七匹の子犬を持ち込んだ。

「すみません、これ買うてくれるんですか?」

「これ?どうしたいん?」

「犬、一匹ここに持ってくれば、五百円くれるって聞いたけん。七匹で三千五百円やけんね。お金くれん?」

当時の三千五百円といえば、かなりの高額である。

「そのお金、何につかうんや?」

「プラモデルじゃけん!欲しいプラモデルがあるで、それ買いたいんや!はようお金ください」

「君らが連れてきた子犬、ここに来てどうなるか知っとるか?」

「・・・?」

「あのな、ここに連れてこられた犬は、みんなあと数日で殺されてしまうんや。この子犬もそうじゃけん。みんな殺されてしまうんやで。それでもええんか?」

「かまわんけん!はようお金ください!はよう行かんと、プラモデルやさん、閉まってしまうけん」

 親が教えたのだ。

「そんなに小遣いがほしかったら、野良犬の子犬を見つけて保険所へ持って行け」と。 

 命を金に換え、そのお金で自分たちの欲しいものを手に入れようとする少年達、それを容認する大人達がたまらなく悲しく思えた。

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