出来たばかりのコンクリート舗装の路上に白い大きな犬の死体が横たわっていた。
開通間もない国道十一号。現在は県道三十三号になっているが、私が高校に通っている三年間に工事が進められて、出来上がった真新しい路面に無残な姿があった。最近では路上に死んでいる犬猫を見るのは珍しくもなくなったが、半世紀も前の光景が強烈に脳裏に残っている。今も通勤時に通る道である。
悲惨な交通事故死は人間も同様で悲しむべきことであるが、その犬猫の命が不慮の死ではなく、まるで売れ残ったコンビニの弁当のように処分されていると聞くと人間のおぞましさに恐怖感を覚える。
それは連日報道される幼児虐待、いじめ、陰惨な殺人事件等殺伐とした世相に現れているようにも思える。
知人が「小さな命の写真展」として、保険所等で殺処分される前の犬猫の表情を写した写真展を常盤街商店街、ホームセンター、駅構内、市役所等々で開催している。
この命、灰になるために生まれてきたんじゃない。全国で一日に約一千頭の犬猫が二酸化炭素に依って殺処分されている。香川県は人口当たりの殺処分数は全国ワースト五位だそうだ。その費用は全国で二十四億円と聞くこれ全て税金で賄われている。
人の癒しの為に、命の尊さを共有する筈のペットが心ない一部の人と思いたいが、無責任に捨てられ殺される。
写真展の会場で売られていた児童書のノンフィクション作家、今西乃子著「犬たちを送る日」の冒頭の部分を要約して紹介したい。
一九七八年、野犬の撲滅対策として、ある県での犬の買い上げ制度を設けたときのことである。
犬を保険所に持ち込んだ県民には一頭五百円の報酬を出す。
そこに小学生三人が七匹の子犬を持ち込んだ。
「すみません、これ買うてくれるんですか?」
「これ?どうしたいん?」
「犬、一匹ここに持ってくれば、五百円くれるって聞いたけん。七匹で三千五百円やけんね。お金くれん?」
当時の三千五百円といえば、かなりの高額である。
「そのお金、何につかうんや?」
「プラモデルじゃけん!欲しいプラモデルがあるで、それ買いたいんや!はようお金ください」
「君らが連れてきた子犬、ここに来てどうなるか知っとるか?」
「・・・?」
「あのな、ここに連れてこられた犬は、みんなあと数日で殺されてしまうんや。この子犬もそうじゃけん。みんな殺されてしまうんやで。それでもええんか?」
「かまわんけん!はようお金ください!はよう行かんと、プラモデルやさん、閉まってしまうけん」
親が教えたのだ。
「そんなに小遣いがほしかったら、野良犬の子犬を見つけて保険所へ持って行け」と。
命を金に換え、そのお金で自分たちの欲しいものを手に入れようとする少年達、それを容認する大人達がたまらなく悲しく思えた。