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第205号 メークローン市場雑感 平成27年4月1日発行
2015-08-07
        メークローン市場雑感
 
  市場内に拡声器で放送が流れた。ガイドに聞くと、後、十分後に列車がきますのアナウンスらしい。しかし、市場の人達は素知らぬ顔で仕事の手を休めない。
 前の魚屋さんは、しゃがみこんで体長数十センチもあるナマズの鰭を切りとり臓を出し、輪切りにして、たらいのような器に投げ入れている。向かいの本屋の女性は隣の八百屋さと話し込んでいる。このまま列車が来たらどうなるのか、テントも商品も邪魔で通れない。そんな心配をするのは、我々観光客だけのようだ。
 確か、ベルか鐘のような音が聞こえたと思うが、列車が近づいたのだ。
その瞬間に商品を引込め、テントを畳んだ。その手際の良さは正しく驚愕であった。
 テレビで何度か見たことのある線路上の市場。一日に四往復の八回列車が通る度に、商品を後方に引込めて、テントを畳む。そこを窮屈そうに列車が通って行く。線路を有効活用した合理的なシステムのようにも思えたが良く見ると後方にある店舗は結構広い。わざわざ線路に、はみ出さなくても、商品展示の出来るスペースは十分にあるように見えるが、線路上は露天商と言われているので、店舗は別人の持ち物か。
 現地語で「傘を畳む市場」と言うらしいが、実に手間のかかることを事も無げにやっている。国有鉄道だから国が許しているのだろう。誠に大らかな国「タイ」である。
 線路は日本の在来線と同じ狭軌でレール間は一メートル程で、その狭いレール間が買い物客が行き交う道になっている。レールの両側まで商品が並べられているのだ。せめて車両の幅だけ空けておけば、人も楽に通れるし、出したり引込めたりする無駄なことはしなくて済むと思うのは私だけか。
 レール際まで置かれた商品は、その高さを心得ていて、商品の上を列車が通って行く。その度に折りたたまなければならないテントは強い日差しを遮る為に考えられた知恵なのか。今までに事故は全くないそうで、列車の運転手も市場に居る人達も習慣としてなすべきことが身についているのだろう。
 いずれにしても豊富な野菜、魚類が並ぶ逞しい市場である。
この列車が通る市場が発展著しいタイの近代化の中で、珍しい市場として注目されてきている。
 他に何か所か市場巡りをしたが、ほとんどすべての市場で雑踏の中に車が押し入って来る。これは先の列車通過より酷いと思ったが、事故がないのはお互いに譲るところは心得ているのだろう。この旧態依然の市場と対照的に久しぶりに訪れたバンコクで小さな驚きがあった。
 繁華街近くのホテルになんとトイレにウオッシュレットが設置されていた。日本では急速に普及して、今では設置されてない家はほとんどないのではないか。世界に誇るべき商品だが、外国で見るのは初めて。正確には二度目だが始めての体験は上海の高層ビルの最上階の展望フロア。そこは日本の不動産会社が経営しているビルだから当然と言えば当然で驚きはしなかったが、ついにバンコクまで進出していた。
 五年後の東京オリンピック。その選手村には必ず設置されるだろうから、それを機に日本の洗浄装置が世界に普及されていくだろう。
 
第204号 懐メロⅡ  平成27年1月1日発行
2015-01-13
「大変悲しい事ですが、大好きな歌、たそがれの御堂筋、の歌手、神戸一郎さんが逝去なさいました。享年七十五才でした」。
この遍路宿の一九七号に投稿した、差出人不明の怪しげな封書の主から、そんな書き出しの手紙が届いた。
この度は住所も氏名も書かれていた。神戸一郎さんとはどんなご関係かは分からないが、親しくお付き合いのあった方のようだ。            
「神戸一郎さんは、神戸商科大学一年生在学中の十九才で歌手デビュー、新幹線のない時代、夜行列車で巡業に行き帰り、大学の授業にも出て、四年で単位取得、更に米国に在住してカルフォルニア大学卒業、その仲間達と事業を立ち上げ現在に至っていた。平成七年に歌手活動は止められていた。
阪神淡路大震災時には水汲み等のボランティア、東北の時も東京からトラックに物資を積んで被災地の各地を訪問され、自ら被災者の方々に渡されたそうです。飾らない、気さくなとても優しい方でした」と。
文面から、神戸一郎さんは、甘い歌声そのままの人柄であったようだ。
「テニスやジム通いをされ、とてもお元気だったので突然の訃報に唖然としております」。
後日の新聞記事によると、前立腺癌であったようだ。自覚症状のないまま、気が付けば遅きに失したのだろうか。
「坂東様が、たそがれの御堂筋、のレコードを長い間お探しになっていらした事、そのCDを購入されて車の中でいつでも聴けるようになさっている事等を神戸さんに電話でお伝えしました。
そう、わー嬉しいな~感謝です、と、とてもお喜びでしたよ。遍路宿のコピーも郵送しご覧頂きました」。
高校時代に憧れの歌手であった人に半世紀が過ぎて、我が拙稿を読んで頂いたとは感激である。
別れたっていいじゃないか、泣くこたないじゃないか、あいつだって真剣に愛してくれたんだ・・・
これも神戸一郎が歌った「別れたっていいじゃないか」の曲だが、これが高校生に相応しい歌かどうかは別にして、クラスで一番の大声の主が教室一杯に響かせて歌っていたのが、ついこの間のように思われるが、すでに半世紀も過ぎている。
 近年はカラオケも全盛期は過ぎたようだがすっかり定着して、二次会のスナックに行くと必ずマイクが待っている。カラオケのないスナックが珍しいように、歌わない、歌えない人も又珍しい存在のようだ。
 設備の音響効果も良くなって、気持ちよく歌えるようになったのも、安定した普及に貢献しているのだろう。そのカラオケも最初はLPレコード、次に八トラックのカセットテープにビデオCD、果てはメモリーでマイクに曲がセットされている。進化する度にこれは最高、これで終りだろう、と買い揃えてきたが、それらは今は使うことなく思い出の品として書斎の片隅に眠っている。現在は音楽配信の通信カラオケ。大抵の曲はあるようだが、この「たそがれの御堂筋」はなぜか無い。        歌を聞くと大体その人の年代が分かる。我が年代は超懐メロ世代か。若者には知り得ない神戸一郎と言う,私とは同世代の歌手の死を悼みながら,懐かしい歌は懐かしい思い出とともに生涯の生きる糧になっていくのだろう。
 
第203号  ローレライ  平成26年10月1日発行
2015-01-13
 ♪なじかはしらねど、こころわびて、むかしのつたえはそぞろみにしむ♪
中学一年生の時に習った「ローレライ」の歌だ。♪わびしくくれゆくラインのながれ♪
その時からいつかそこに行こう、と強い憧れを持っていたのだが、気が付けば六十余年が過ぎていた。
 「中欧第一の大河、延々千三百キロメーターのライン河。この河の中流、ドイツの国に入ってまもなく、右岸にそそり立つ豪壮な、そして岩肌のごつごつした奇岩が見えます。河水はとうとうと流れて底知れぬ淵を作り、魔物の口のような無気味な渦巻さえ見えます。これが有名なローレライの岩です」。
 音楽の教科書の楽譜に添えられている「ローレライの伝説について」の記述である。
 やっと思い立って「ライン下りのあるツアー」に申し込みをして、ライン河下りをしてきた人達に聞いてみると、そそり立つ豪壮な奇岩、魔物の口のような渦巻と言う昔の面影はなくてがっかりしますよ、と夢のないことを言ってくれる。
 日本の最上川、両岸の山に抱かれてとうとうと流れる河下りを思い起こして、あの山の一部にごつごつとした岩山があればイメージは合うように思われるのだが。そんな思いでライン河のクルーズ船に乗る。
 両岸の山には至るところに古城があって歴史を忍ばせるが、岸辺の開発、賑わいは著しく、河に沿って両岸とも道路と鉄道が敷かれ、左岸には豪華列車が走り、右岸の貨物列車には延々とざっと数えて二百数十台の乗用車が一気に運ばれて行く。川面にもスクラップのような荷物を積んだ細長い船が行き来はしているが、物流の大半は川から岸に移ったようだ。この岸辺の賑わいが、ローレライの神秘さを奪ったのだろう。
いくつかの古城を撮り続けてやがて船内にローレライのメロディーが流れる。ときめきを覚えながら右岸側の甲板に上がる。
ごつごつした岩がある。その下に「LORELEY」の表示がある。ここだけは岩と河の間に建物、道路、鉄道は見えないのが救い。
魔物の口のような渦は感じない。これは船が大きいから少々の渦では船底で消えてしまう。
 中学生の時に抱いたイメージとは確かに違っていたが、それは数十年の時の流れでもあったのだろう。
 それにしても、人間の歴史は言うまでもなく戦いの歴史でもある。
 ライン河沿いの古城も戦の砦であったし、古都リュッベック、ローテンブルク、ネルトリンゲン、ハイデルベルク等、行く先々で要塞が残っている。
 なかでもベルリンの壁はまだ記憶に新しい要塞だ。東西を分けた不幸な歴史からドイツ人の高い知性で壁を取り除いた。今は観光用に二、三百メートル残してあるが、愚かな人間の姿がそこに映っているようでもあった。
そのベルリンの南西郊外にある街ポツダム、「ツェツィリエンホーフ宮殿」に日本の運命を決めたポツダム宣言を協議した部屋には、円型テーブルの中央に三国の国旗が飾られ、メンバーの椅子が当時のまま保存されていた。
一九四五年七月二十六日、アメリカ合衆国中華民国、イギリスの三国が日本に対して発した共同宣言。この時日本が即座に受諾していたなら、ソ連の介入はなかったかも知れない。原爆、シベリア抑留、僅か何日間の決断の遅れで、多くの尊い命を失った。
 
第202号 持病  平成26年7月1日発行
2015-01-13
本来なら、今頃「詩吟」を得意そうに吟じていたかも知れない。
母が習い始めた頃に、一緒にと言う思いもあったのだが、生来の引っ込み思案もあって躊躇している間に、習い損ねたのだが、もう一つ原因があった。鼻詰りである。
鼻がおかしいと気付いたのは確か中学生の時であった。
先生に言われたのか、医者に指摘されたのかは定かでないが、授業を抜けて隣町の病院まで電車で何か月か通った記憶がある。
その後にも、町の診療所の耳鼻科でどんな治療をしていたのかわからないが、鼻の中の骨に錐のようなものを当てて金槌でガンガン叩いて穴をあけようとされて いたようだが、医者は、こんな硬い骨は初めてだ、と、言ってその手術?は諦めたようだ。しかし、その時の恐怖は今も脳裏にある。
 結果、治らなかったのは確かで、以後持病と諦めて七十年余り付き合ってきた。
殊に季節の変わり目に症状が酷くなる。その度に市販の点鼻薬にお世話になっていた。
鼻詰りには、痰が付いて回る。常に喉に痰があって気分が悪い。思うように声がでないだけではなくて、記憶力の悪さも、これが脳にまで影響しているのだ、と言い訳にもしていた。
大声で話をしている人をみると羨ましい限りだが、声の出難さを不思議に忘れるひとときがある。それはカラオケである。もっともその日によって、今日は気分 良く声が出るとか、出難いとか、多少の差はあるが、カラオケの歌いやすさは、声のコンディションよりも音響装置で決まるようで、高性能のスピーカーから聞 こえてくる我が声を聴くと、誰でも歌手になったような気分になれる。それがカラオケが普及した要因だと思うが、歌っている時の我が喉の痰はどこにいってい るのだろう。気分の持ちよう、対処の仕方によっては、体調はどうにでも変えられるということかも知れない。
昨年から今年にかけて、各地で猛烈な雨が降ったり、今までにない積雪を記録したり、気候が異常に変化しているように思えたが、
我が鼻も、異変に敏感に反応して、市販の点鼻薬では鼻詰りが解消されず、苦しんだ末に仕方なく内科で掛り付けの病院の耳鼻咽喉科を訪ねた。
若い?女医さんに鼻の中を覗きこまれるのはなんとも妙な感じであったが
「市販の点鼻薬はすぐに止めて下さい」
「痰溜りが出来ていますが手術をしないといけないほどではありません」
「薬を出しておきますから毎食後に飲んで下さい」と歯切れの良い口調で指示をしてくれる。
それから数日後には鼻も通って、痰はどこへいったのか。数十年の医薬の進歩に驚かされたが、そんなことならもっと早く診てもらっておけば良かった。
喉もすっきり、頭もすっきりして、目の前に迫った老後が楽しみになってきたが、今更記憶力が良くなるわけもなし、詩吟を習うには遅すぎる。
せめて脳を鍛える為にしっかり指を動かせて、好きな歌を、自分のピアノ伴奏で歌えれば楽しいのだが、満足に弾けるようになるには、どうやらあの世にいってからになりそうだ。
 
第201号  運命  平成26年4月1日発行
2014-04-11
 人生は、「心の持ち方で決まる」と固く信じているのだが、それだけでは測れない運命があるようだ。
 類は友を呼ぶ、の言葉通りに、高校の同級生の中で、十人ほど、ことある毎に集まる仲間がいる。皆、大人しく真面目である。
 新年会に花見、夏にはビアガーデンへと揃って楽しんでいるのだが、数年前から、その集いに参加出来なくなった者がいる。
 奥様が、くも膜下出血で倒れた。それまで毎日、年老いた両親の看病に通い続けていた過労が原因のようであったが、自宅で気分が悪くなって近くの病院に行って、診察を待っている間にベンチで倒れた。当然処置も早かっただろうし、最近の医学の進歩ですぐに回復されると、誰もが願い信じていた。ところが、日が経つにつれて容体は悪化していったようで、最初の頃は、幼児の絵本のような簡単な絵を見せると、「犬、猫、自転車、魚」と言葉で反応があった。
 以前に同業者の社長が同じ病気になられて、見舞いに行くと「あなたの顔は分かるのだが名前が出てきません」と言われ、同じような絵を見て訓練されていたが、どう見ても現役復帰は不可能と思われたが、二年後には回復されて傍目には何の後遺症もないほどに元気になられて、ゴルフまでされている。出血した場所が違うのか、治療の仕方が違うのか、運命の分かれ目は素人には分からない。
 倒れられてから食べ物は一切口にせず、管で胃に栄養源を流し込まれて命をつないでいた。
闘病生活五年二か月。自宅から車で三十分程の病院に入院されて、ご主人はほぼ毎日看病に通ったが、その甲斐もなく、帰らぬ人となられた。ご本人にも看病されたご主人にもなんと過酷な長い歳月であったことか。
 「六十八歳で発病、それからの五年の歳月は本人にとっても私にとっても、六十八年の何倍も長く苦しいものでした」と喪主であるご主人の言葉が重く響いた。        
 この同級生、奥様が病魔に侵される二年前に一粒種の息子さんを膵臓癌で亡くされていたのだ。IT関連の厳しい業務が災いしたのか。二人の娘を残して若干三十八才であった
 これをどう受け止めてどう対応すればいいのか、慰める言葉が出てこない。
 奥様の葬儀にも、その孫娘さんの姿はなかった。遠く東京に住まわれていることもあって、疎遠になっているのかも知れないが、実の祖母の葬儀である。他人の介入することではないが、一人になった同級生が尚更哀れに感じた。
 加えて奥様の闘病の五年の間に同級生自身も前立腺癌を患って摘出手術を受けたのだ。そんな過酷な試練は誰が、なんの為に与えたのか。簡単な健康管理と言う言葉で済まされるのか。病魔と言う不幸から逃れる術はなかったのか。救える心のありようはなかったのか。
親友と言えども、その心の奥までは理解し得ないが、少なくとも物事を悪く受け止める僻み根性の人間ではない。
元気を出せ、と言っても難しいかも知れないが、せめてお互いに残り少なくなった人生を悔いなく楽しめるように頑張ろう。 
 喪が明けて、春には同級生メンバーに復帰して、恒例の我が家での花見に元気な姿で来てくれることを願っている。
 

第191号  灰になるために生まれてきたんじゃない

第191号  灰になるために生まれてきたんじゃない
 
灰になるために生まれてきたんじゃない

出来たばかりのコンクリート舗装の路上に白い大きな犬の死体が横たわっていた。

開通間もない国道十一号。現在は県道三十三号になっているが、私が高校に通っている三年間に工事が進められて、出来上がった真新しい路面に無残な姿があった。最近では路上に死んでいる犬猫を見るのは珍しくもなくなったが、半世紀も前の光景が強烈に脳裏に残っている。今も通勤時に通る道である。

悲惨な交通事故死は人間も同様で悲しむべきことであるが、その犬猫の命が不慮の死ではなく、まるで売れ残ったコンビニの弁当のように処分されていると聞くと人間のおぞましさに恐怖感を覚える。

それは連日報道される幼児虐待、いじめ、陰惨な殺人事件等殺伐とした世相に現れているようにも思える。

知人が「小さな命の写真展」として、保険所等で殺処分される前の犬猫の表情を写した写真展を常盤街商店街、ホームセンター、駅構内、市役所等々で開催している。

この命、灰になるために生まれてきたんじゃない。全国で一日に約一千頭の犬猫が二酸化炭素に依って殺処分されている。香川県は人口当たりの殺処分数は全国ワースト五位だそうだ。その費用は全国で二十四億円と聞くこれ全て税金で賄われている。

人の癒しの為に、命の尊さを共有する筈のペットが心ない一部の人と思いたいが、無責任に捨てられ殺される。

写真展の会場で売られていた児童書のノンフィクション作家、今西乃子著「犬たちを送る日」の冒頭の部分を要約して紹介したい。

一九七八年、野犬の撲滅対策として、ある県での犬の買い上げ制度を設けたときのことである。

犬を保険所に持ち込んだ県民には一頭五百円の報酬を出す。

そこに小学生三人が七匹の子犬を持ち込んだ。

「すみません、これ買うてくれるんですか?」

「これ?どうしたいん?」

「犬、一匹ここに持ってくれば、五百円くれるって聞いたけん。七匹で三千五百円やけんね。お金くれん?」

当時の三千五百円といえば、かなりの高額である。

「そのお金、何につかうんや?」

「プラモデルじゃけん!欲しいプラモデルがあるで、それ買いたいんや!はようお金ください」

「君らが連れてきた子犬、ここに来てどうなるか知っとるか?」

「・・・?」

「あのな、ここに連れてこられた犬は、みんなあと数日で殺されてしまうんや。この子犬もそうじゃけん。みんな殺されてしまうんやで。それでもええんか?」

「かまわんけん!はようお金ください!はよう行かんと、プラモデルやさん、閉まってしまうけん」

 親が教えたのだ。

「そんなに小遣いがほしかったら、野良犬の子犬を見つけて保険所へ持って行け」と。 

 命を金に換え、そのお金で自分たちの欲しいものを手に入れようとする少年達、それを容認する大人達がたまらなく悲しく思えた。

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