エスエヌデー株式会社|電設資材|照明器具|空調機器|住宅設備機器|家電製品|情報機器販売|香川県坂出市

 
 
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第190号     万葉会館
2013-06-04
「万葉会館」いかにも歴史を感じさせる名前だが、ここに坂出ライオンズクラブから書庫を寄贈することになって、さてどこに有るのか、坂出在住者の何人かに聞いてみたが、沙弥島にあるらしい、ことしか分からない。
その沙弥島。坂出港から四キロメートルの沖合に浮かぶ、周囲二キロメートルの小さな島であった。昭和四十二年、番の州工業用地埋め立て工事によって四国本土と陸続きになったが、歴史の宝庫の島である。万葉会館はその島の入口にある。地域の伝統文化、芸能等を活発化させ、保存、継承、発展向上を図る為の施設であるそうだが、極一部の人にしか知られていないようで、誠にもったいない施設である。
隣接するナカンダ浜には何度も清掃奉仕に行ったが、その万葉会館の存在は全く知らなかった。
ナカンダ浜の陸地側、海の家の横の駐車場に車を置いて、改めて島を歩いてみた。
ナカンダとは中の田と言う意味らしい。何気なく浜のゴミを拾っていたが、資料によると、その砂の下に古代の製塩土器が包蔵され、さらに下層から縄文土器も出土していた。そんな時代から人々の暮らしがあったことが窺えるのだそうだ。気の遠くなるような昔にその小さな島にどうやって渡って行ったのだろう。もしかすると当時の人々は四キロメートル位の距離は簡単に泳いで渡る能力を持っていたのだろうか。
ナカンダ浜の北側に展望台が作られている。
石碑に「沙弥ナカンダ浜展望台」と書かれていて、坂出ライオンズクラブ二十五周年の記念行事として我々の先輩が寄贈していた。
 展望台に立つと目の前に現代の技術の粋を集めた瀬戸大橋が、左手には柿本人麻呂碑が見える。今昔を実感する場所である。
 人麻呂碑は、その崇高な人間愛を敬慕する中河与一が昭和十一年に建立したもので、展望台の手前に人麻呂の歌碑もある。
千三百年ほど前の昔のこと、人麻呂が乗った舟が暴風雨に遭い、激しい潮流にも流されて沙弥島の陰に入り、やっとの思いで浜辺にたどり着く。その時に詠んだ歌が歌碑として建立されている。
 坂出市出身である中河与一は昭和十年、小説「愛恋無限」を発表して愛の尊厳を訴え文壇に新風を起こしたが、その心は人麻呂に通じ、この最終場面に沙弥島の大自然が描かれている。
 人麻呂碑の手前を左に山道を登って行くと、整備された遊歩道に出る。その突き当りが長崎鼻である。
 昭和六十一年に遊歩道工事中に石棺が発見されて、一点だけの埋蔵品に石棺外の土器片等から弥生時代後期のものと推定されている。
 岬の先端の岩に立つと塩飽諸島が一望出来て、ここが沖合いを航行する舟の目印になっていたのが分かる。
 人っ子一人いない遊歩道を巡回案内に沿って歩く。
 島の北西丘陵で最も高いところが城山と呼ばれて、山頂を囲んで石段があり、二段の郭になっている。塩飽水軍の砦か、見張所として構築されたようである。
 眼下の海は透き通って、現代の汚れを感じさせない清々しい散策であった。
隣の東山魁夷せとうち美術館に行かれたら、是非足を運んでほしい沙弥島である。
               
 
第189号 ベトナム
2011-01-01
  「難民」と言うイメージしかなかったベトナム。某メーカーの親睦会でホーチミン市(旧サイゴン)を訪れる機会を得た。
 
  一九五四年にジュネーブ協定によってフランスが撤退。そこにアメリカが介入して民族解放戦争が始まった。自国内の戦争で多くの国民が犠牲となった。その悲惨な有様が連日報道されていたのは、ついこの間のように思っていたが、その戦渦が終わってすでに三十数年が過ぎていた。空港を出て迎えのバスに乗る。僅か二十名足らずの団体に、横三列の豪華な座席の大型バス。滞在期間中、ゆったりと移動、観光させてもらう。車窓の景色に当然と言えば当然のことだが、難民を連想させるものはなにもない。街並みは綺麗で点在する公園は手入れが行き届いていて市民の憩いの場所になっている。その姿は私には意外だったが、この人達の大半は自国の戦争を知らないで育ったのだ。道路も良く整備されて道幅も広い。唯、日本と全く違った光景があった。単車の群れだ。信号が変わる度に道一杯になって押し寄せてくる。その集団はまるで一斉に飛び立つ鳥の群れを連想する。接触、衝突事故が起きないのが不思議だが、運転技術のなせる技か。もっと驚く事は、その単車の群れの中を横断して行く歩行者がいる。マイペースで歩いて行く。日本ならとっくに跳ねられて大事故になるだろう。相手の動きに合わせて流れに乗って進んで行く。行く手に邪魔がはいるとタイミングよく避けて、決して怒りの感情は起こさない。交差点で集団が合流するときも、お互いに何かの信号でも送りあっているかのように見事に溶け込んで行く。怒らず、焦らず相手を見て自然に行動する。それはこの国の人達の歴史がそうさせたのだろうか。因みに、この単車のほとんどが日本製、人口八百万人に単車はなんと五百万台あるそうだ。

  テレビの製造工場を見学する。小さな工場であったが、そのラインに女性が十人ほど並んで、プリント基板に部品をはめ込んでいる部署があった。日本ではこの作業は全て産業用ロボットが自動で行っている。それをその女性達が、両手を使って早く正確に所定の場所に小さな部品を挿していく。これまで日本人ほど器用な国民はいないと固く信じていたが、見事に覆された。器用さ、勤勉さは日本よりもはるかに勝っているように思えた。

  郊外に出ると、道端にバラック小屋で商品を並べて売っている風景も見受けられたが、人々の表情は明るい。

  メコン河、ベトナム戦禍の報道時に聞きなれた名の河だ。椰子の実に穴を開けてストローで生の果汁を飲みながらのクルーズ。中洲に観光用か、ジャングルらしき場所がある。そこで買った手作りのキャラメルが、包装の不具合でキャラメルの端に紙がくっついて取れない。土産用にと数箱買ったが、残念なことに他人には渡せない。しかし、私には、現地の素朴な人達を思い出しながら美味しく頂いた。

  滞在中、案内をしてくれた現地の四十歳位の男性ガイドが

  「初めて日本に行って、羽田からモノレールで東京都内の景色を見て驚いた。こんなに進んだ世界があるのだ。残念なことに我が国の若者の大半がそんな日本の姿を知らない」と言っていたのが印象に残る。
 
第188号   願い
2013-06-04

小学生であったか、中学生になっていたか記憶は定かではないが、母と並んで近所の麦畑の草取りをしていた。畝と畝の間の溝に麻袋を敷いて、それに腰を下ろして麦に混じっている草を手で抜き取るのである。根気のいる作業である。何を思ったか、私は「こんな手間なことをしなくても、麦と草とを認識して草だけを抜く機械がいつか出来るだろう」と言ったら母は「そんなもの出来るかえ?」と怪訝な顔をしていたが、いつだったか、まだ辺り一面麦畑が見られていた頃、母が「お前が言っていたようになったな」としみじみ言った。それが機械ではなくて除草剤にはなったが、麦と草とを判別する発想は同じだ。

どうやら生来の怠け者の片鱗はその頃から芽生えていたようだ。コツコツ努力をするのではなくて如何に楽をするか、そんな方法ばかりを考えていた。本人は真剣に、そこに人類の進歩がある、と思っている。

その頃の切実な問題は、トイレであった。汲み取り式で溜まれば、田んぼの肥料にする大人になってあの作業だけはしたくない。

それに用を足す度に臭ってくる、下に溜まっているものが見える。毎日誠に不愉快な空間で一時を過ごさねばならない。少しでも快適にするにはどうするか、溜まっているものが見えないようにするにはどうすればよいか。子供なりに色々と図面を書いて考えてみたが、これは全くの徒労であった。

「水洗」水で流してしまうとは思いつかなかった。これで嫌な汲み取り作業も悪臭も一挙に解決したではないか。

四十年前に我が家を新築した時にはまだ水洗トイレはあまり知られていなかった。依頼した大工さんは「無臭トイレでよかろがな」と水洗トイレにすると言うことを受け入れようとしない。無臭トイレと言うのは私が子供の頃に考えていた構造と大差がない。汲み取りが必要なのだ。

水洗に出来ないのなら家を建てるのは止める。とまで言って了承してもらう。幸い親しくして頂いていたお得意様に手続きから機器の調達、全てをお願いして完成した。多分、町で最初の水洗トイレ設置家屋であったと自負している。

 その後、水洗トイレが普及し始めた頃、トイレを水洗にしませんか、と訪れたセールスマンに、中学生になっていた長女が、「えっ、まだ水洗でない家があるのですか」と言ったら、「失礼しました」と帰って行ったと笑っていた。

 現在の日本のトイレの設備は世界一だろう

ウオッシュレットが出始めた頃に、お得意先の設備業者様に、その説明会をホテルの部屋で行った。

 「便器を傍らに、ケーキとコーヒーを頂く、そこに何の違和感もない、「私が子供の頃のトイレのイメージとは隔世の感がございます」と終わりの挨拶をしたのを覚えている。

 僅か半世紀ほど前のことなのに、麦畑は姿を消し、肥料になっていた糞尿は見事に分解されて水に戻る。

 生活環境は目覚しい進歩を遂げたが、何故か、日本列島は不況の底に沈んでいるような報道ばかりがされる。スーパーに食料品は溢れ、移動するのは車、家屋は冷暖房完備。国民生活は豊かなのに国は貧困。これは政治家の貧困だ。新しい年、将来に夢の持てる偉大なリーダーの出現を全国民が切望している。
 
第187号 テレビの地デジ化に思う
2010-10-01
  お得意先のご親戚に質屋を営まれていた人が居られる。高松の市街地の真ん中にそのお店はあった。お客さんの中には年金だけが頼りのお年寄りも多く、その質屋さんを頼りに細々と暮らしている。月によっては孫に小遣いが要ったとか、突然にお悔やみがあって支払うべき何百円かの金利が払えずに頭を下げて許しを請いに来られることもしばしばあるようだ。そんな話しが耳に残っていた。

  平成二十三年七月二十四日までにテレビは従来のアナログ放送を中止してデジタル放送に完全に移行する。宣伝も行き亘たって知らない人はいないと思われるが、さて、何がどう変わってなぜそれが必要なのかは、一応この業界の端くれに身を置く者として知っておかなければならないとは思うのだが。

  辞書には、アナログとは連続的な量、連続的に変化する値を物理量に変えて処理したり表示すること。音声を連続的な電流の強弱に変えることなど。

  デジタルとは計数型の、連続的な数値や状態を不連続な数値に分割して表す方式。

  これをすんなり理解出来る人は少ないのではないか。この理論が小数の技術者達によって庶民の暮らしに役立つ道具として作られていく。時代はアナログからデジタルに確実に移行して行くらしい。     

  メーカーから出ているデジタル放送ガイドブック等を見ても、高精細なハイビジョン放送や多チャンネルのマルチ編成が可能となり、画面のみならず、音声もクリアになり臨場感あふれる放送が実現しました、と特徴は書いてあっても、なぜそうなるのかはどこにも書かれてない。もっともそれは一般には理解し難い理論なので必要ないことなのだろう。

  暮らしが便利に快適になる為の技術革新は結構なことと思うし必要なことでもあろう。

  携帯電話も出始めの頃は決して持とうとは思わなかったが、時代の流れと諦めて持つようになると、いつの間にか必需品になってしまった。我々の年代ではこの小さな箱の中に電話にメール、ワードに計算、カメラにテレビ、スケジュール表、果ては金銭の支払いまで出来る、正に驚嘆。脅威すら覚えるのだがすでにこれが当たり前の時代になっている。これもデジタル技術のなせる技だ。

  日進月歩、間断なく急速に進歩するのは人間の本能なのだろうが、どこまで進めば満足するのだろう。行き着く果ては人類滅亡のように思えて空恐ろしい。

  技術が進めば進むほどに人間の能力の差が広がっていくのは確かで、その格差を縮めて豊かな人間社会を実現する爲の高度な政治力は絶望的だ。

  デジタル放送対応テレビが売れることは一般的には消費が増えて、低迷する景気に多少なりとも好影響にはなるだろうが、細々と年金暮らしをしている人に安くなったとは言え、何万円ものテレビは買えない。従来のテレビを見るには、チューナーが必要だが、それも当初は3万円位していたものを、五千円で出せる商品を作れと政府の指示もあって、性能を簡単にしてどうにかその価格にはなったようだが、それにしても年金から五千円の出費は酷だろう。国の政策としてデジタル化を進めたのだから、家庭の事情を考慮して、せめてチューナーくらいは無償で配れる配慮が政治に求められると思う。
 
第186号 同窓会
2010-07-01
  今年の年賀状の一通に同級生から「古希を迎える年になりました。久振りに同窓会をしたいと思いますので、その節は一肌脱いでください」
  そんな年になったとは実感も認識もないが、世間から見ると紛れもなく七十歳のようである。
  折角のお声掛り、それならやりましょうか、と新年会、業界の総会等でお世話になっている高松駅近くのホテルに交渉して三月二十一日春分の日に開催で案内状を作成。往復葉書で発送する。
  我が世代は村立の小、中学校で九年間共に学んだ仲間だ。もっとも小学校だけだった人とか途中で転校された人も分かる範囲は等しく案内をした。総勢九十名余りになる。
  残念ながら今日までに命を落とされた人は十三名。中には若くして恋に破れて自ら命を絶った女性、都市銀行で前途を有望視されていながら働き盛りで癌に襲われた人、高級官僚を定年退職と同時に亡くなった人、名簿に記載された物故者に冥福を祈る。
  年賀状の主に出欠の集計を依頼する。出席してくれるのは三分の一位で三十名余りか、と予想をしていたのだが、思いがけない事態が起こった。
 
  案内状が届くや否や一人の女性から電話が入る。
  弾んだ声で「ようしてくれた!誰か同窓会をしてくれる人がいないかと待ってたんや」
  それからその女性はほとんど全員に電話を入れて勧誘をしてくれる。
  行くとも行かんとも返事のない人、中には何で行かないかんのや、と言われた人もあったようだが、出席回答者四十八名にもなる。 
  男性二十五名、女性二十三名。当然当日緊急の用事で欠席も出るだろうと予測はしていたのだが、なんと四十八名全員揃う。これには驚愕、感激だ。
  会場の舞台を利用して記念の集合写真を撮る。三脚を立てて格好は写真屋だが、所詮は素人。スポットライトの照明のばらつきが気にはなったが、そのままシャッターを切る。結果は心配した通り部分的な明暗があって、折角の貴重な写真が申し訳ない映像になったが夫々の顔ははっきり出ているのでお許しを願う。
  懇親会は和室の大広間で全員の顔が見えるように、口の字型に座る。一辺に十二名になると向かいあった人がいささか遠いが、懐かしい顔が並んだ大宴会となる。
  最遠方は埼玉県から参加。この人に乾杯の音頭を取ってもらって順次全員に近況報告をしてもらう。
孫の守をしている人、夫婦二人で旅行を楽しんでいる人、又、連合いを亡くした人も、夫々に悠々自適の暮らしをされている。私と同じように今尚現役で働かされて(失礼、働いて)いる人も二人いた。
  私は賑やかな談笑の中で、今は亡き恩師の言葉を思い出していた。
  「卒業してもいつでも母校に足が向いている人になれよ、同窓会に進んで出席出来る人であれよ、それが出来なくなった人は不幸な道を歩んでいるように思える」
  何気なく言われた言葉だが、多くの教え子を見てそう感じておられたのだろう。
 
  感動の余韻の中で、二年後の再会を誓う。
 

第191号  灰になるために生まれてきたんじゃない

第191号  灰になるために生まれてきたんじゃない
 
灰になるために生まれてきたんじゃない

出来たばかりのコンクリート舗装の路上に白い大きな犬の死体が横たわっていた。

開通間もない国道十一号。現在は県道三十三号になっているが、私が高校に通っている三年間に工事が進められて、出来上がった真新しい路面に無残な姿があった。最近では路上に死んでいる犬猫を見るのは珍しくもなくなったが、半世紀も前の光景が強烈に脳裏に残っている。今も通勤時に通る道である。

悲惨な交通事故死は人間も同様で悲しむべきことであるが、その犬猫の命が不慮の死ではなく、まるで売れ残ったコンビニの弁当のように処分されていると聞くと人間のおぞましさに恐怖感を覚える。

それは連日報道される幼児虐待、いじめ、陰惨な殺人事件等殺伐とした世相に現れているようにも思える。

知人が「小さな命の写真展」として、保険所等で殺処分される前の犬猫の表情を写した写真展を常盤街商店街、ホームセンター、駅構内、市役所等々で開催している。

この命、灰になるために生まれてきたんじゃない。全国で一日に約一千頭の犬猫が二酸化炭素に依って殺処分されている。香川県は人口当たりの殺処分数は全国ワースト五位だそうだ。その費用は全国で二十四億円と聞くこれ全て税金で賄われている。

人の癒しの為に、命の尊さを共有する筈のペットが心ない一部の人と思いたいが、無責任に捨てられ殺される。

写真展の会場で売られていた児童書のノンフィクション作家、今西乃子著「犬たちを送る日」の冒頭の部分を要約して紹介したい。

一九七八年、野犬の撲滅対策として、ある県での犬の買い上げ制度を設けたときのことである。

犬を保険所に持ち込んだ県民には一頭五百円の報酬を出す。

そこに小学生三人が七匹の子犬を持ち込んだ。

「すみません、これ買うてくれるんですか?」

「これ?どうしたいん?」

「犬、一匹ここに持ってくれば、五百円くれるって聞いたけん。七匹で三千五百円やけんね。お金くれん?」

当時の三千五百円といえば、かなりの高額である。

「そのお金、何につかうんや?」

「プラモデルじゃけん!欲しいプラモデルがあるで、それ買いたいんや!はようお金ください」

「君らが連れてきた子犬、ここに来てどうなるか知っとるか?」

「・・・?」

「あのな、ここに連れてこられた犬は、みんなあと数日で殺されてしまうんや。この子犬もそうじゃけん。みんな殺されてしまうんやで。それでもええんか?」

「かまわんけん!はようお金ください!はよう行かんと、プラモデルやさん、閉まってしまうけん」

 親が教えたのだ。

「そんなに小遣いがほしかったら、野良犬の子犬を見つけて保険所へ持って行け」と。 

 命を金に換え、そのお金で自分たちの欲しいものを手に入れようとする少年達、それを容認する大人達がたまらなく悲しく思えた。

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